「人の心には心で応える」のが私の信条だ。
これは、大学生の頃、ある2時間ドラマで、「心が欲しけりゃ心で当たれ」という言葉を耳にしたことが影響している。
確か、結婚相談所か婚活パーティーを舞台にしたドラマで、会員女性とうまくいかないと主催者(演:香川京子)のところにクレームをつけに来た男性会員に同じく会員の男性(演:大滝秀治)がこの言葉をかけて窘めていたと記憶しているが、その時、テレビを見ていた私はハッとした。
何故なら、私自身、それまで、「愛してほしい」、「愛されたい」と思うことはあっても、自分の方から「愛さなければならない」、「愛したい」と思ったことなど一度もなかったからでR。
それ以来、この言葉は、私にとって人生の教えとなっている。
それだけに、たとえ親であっても、無意味に我が子や他者を見下したりすることは許していないし、人の気持ちを踏みにじったり、他者の存在を無視したり、自分が理解できないことは認めない(自分の理解力不足で理解できていないのだとしても認めないつもりか?)、などは言語道断だと思っている。
自分を愛するためには他者を愛することも必要とされるというのはそういうことだ。
つまり、「自分を愛する」ことは「他者を愛する」ためでもある、ということ。
自分が愛さないで一方的に愛されようなんて虫のいい話はそうそうないし、あったとしてもどこかに綻びがあるものだと私は思っている。
若い頃の私がそうだった。
相手のひたむきな愛に自分自身が愛で報いなかったために、結果的に相手も自分も傷つけ、人生が大きく変わってしまった。
若気の至りと言うにはあまりにも痛すぎる人生の大失敗。
「心が欲しけりゃ心で当たれ」を実践しなかったツケが未だに払い切れていない。
その点、困ったことに「人の心には心で応える」のが信条だとは言いながら、心が向けられなかったり悪意を向けられたりすると、自分もそれだけの心しか向けなくなるし、心で当たってまで心がほしいとは思わないこともある。これは、私に限らず多くの人がそうではなかろうか。
だから、自分を愛するためには他者を愛することも必要だということを誰もが認識し、心で当たって心を得る、相手の心には心で応える、を実践していかないと円滑な人間交流は成り立たない。
正に、汝の敵を愛せよ(自分に対して悪意を抱いている者や、迫害してくるような敵こそ慈愛の心を持って接しよ)の精神でないと心は得られないということなのでしょうな。
駄文の御閲覧、心より感謝申し上げます。