【オーダーメイド小説のサンプル】

記事
小説
『出立』

とシンプルにでもいいかな。

たまには、大人のリアルなシンデレラストーリーはいがかでしょうか?秋の夜長のおともになれば幸いです📚(2万字短編)

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1⃣避暑地コモ湖

わたしは、ひょんなことからこんな高級リゾート地のオープンテラスレストランで優雅に香り高い紅茶をいただいている。
ここは地球上の湖水地方で最も美しいといわれている避暑地のひとつ、コモ湖。湖といえば筆頭故郷の小さな竜神湖を想起するし、おそらく今のところ最も愛している湖だ。これは極めて個人的な体験に基づくものである。幼い頃の憧憬、記憶が織りなした原風景。きっと誰にでもある心の中の風景。
 一方、ここは世界からのお墨付きの湖だ。北ロンバルディア湖水地域は、イタリア・アルプスのコモ湖、マジョーレ湖、それからガルダ湖などからなる湖沼群であり、中でも最も美しいと誉れ高いのがここコモ湖である。長さは42km、幅4.3mと細長く、漢字の『人』の形をしている。コモ湖の南端にあるこの町は、王族や貴族、セレブたちの瀟洒で壮大なヴィラが並ぶイタリア髄一の高級避暑地である。
 わたしが高級志向?確かにいつか両親にこういうリゾート地で寛いでもらいたい、そんな思いがあるにはあるが、なんのことはない、知り合いの知り合いが仕事のためにこの避暑地でひと夏を過ごすことになっていたところ、連れの一人がコロナワクチン接種を忌避したそうで、このわたしにラッキーなチケットが舞い降りてきたというのだ。わたしにとっての日常から乖離した世界で、ひと夏を過ごす、それはまさかの、運に恵まれた、ってことでいい、よね?意外とこういうラックは、身近に存在するんだと、われながら驚いてはいる。
 わたしは、ワクチンにそこまで抵抗はない。ワクチンを打つと、数か月から数年でころり、そんな噂を聞くには聞いたけれど耳はかさない。なぜかって?現に接種した方々は生きているし、それに信念は身体に影響を及ぼすとはよく言われることで、それを裏付けるような逸話を聞いたことがあったからだ。
 「バナナを食べたら死ぬ」
バナナを食べたら死ぬ、そんなことはあるはずはないと、わたしたちは知っているが,
ある部族には死ぬという迷信が代々つたわっていた。この部族の子が青年になりとあるホテルで会食をしたという。料理には、バナナが使われていた。無論のこと、青年はバナナを食したことがないから自身はバナナを食べたという自覚は微塵もなかった。また、これも私たちにとって当然の事だが、バナナを食した青年の身体に何ら変調はなかった。 
 しかしのちに、呈された食事にバナナがあり青年はそのときあのバナナが喉元を過ぎていることを知った。青年はその話を聞くや、その場で即死したという。ショック死なのだろう。
 それに、こんな話も耳にした。人を噛めば致死をもたらすほどの神経毒を牙に潜ませる毒蛇がいる。しかしとあるアメリカの宗教の信者たちは、「毒蛇の毒は平気。」そう強い信念を持っているという。事実、彼らは毒蛇の猛毒を体内に取り込んでも死なない。驚くべきことだが、本当に死なないそうだ。
 信仰は山をも動かすというが、それ相応のことではないだろうか。
 わたしときたら、多聞にもれず神社仏閣の神様がたを参拝し、八百万の神々を尊んでいる。それに神事や神々へのお祭りごとにその場その場で信敬する。しかし、あの部族の青年のようにもアメリカのとある宗教の信者のようにもあれほどの強い信念を目下持ち合わせていない。
 しかし、「コロナワクチンは、危険。」という情報を仮に深く信じてしまったとしら、もしかしたら部族の青年にとってのバナナに近い影響を及ぼしはしないか、逆に「コロナワクチンは平気。」そう強く信じていたら、毒蛇の猛毒を無毒化する程ではなくても神秘か怪奇かわからぬといえるほどの免疫力や抵抗力のお裾分け程度の効力を発揮するかもしれない、そう考えるのだ。
 特に女性に抵抗感を抱く人が多いと言うし、わたしも確かに少しばかりは気にはなるけれど、そういうわけで、何よりも大切なことは普段からの身体管理で、最も悪いのは、いやいや打つことじゃないかって思ってる。
 ワクチン自体で突然死を引き起こしてしまう人も若干いる。天狗熱のように自分の体に致命的な攻撃をするように作用してしまうそうだ。そんな遺伝的性質を持ち合わせているかどうか予め検査してから打つのがよかったのかもしれないが、ワクチン接種がもたらしたのは、この景色。この街でのひと夏。両手を大きく広げ、地球はかくも美しい、そんな少し大袈裟な言葉までためらいなく出てくる体験。
2⃣

毎時と表情を変える水色の湖にわたしは息を飲む。
 今朝よりも明るさが増し、南国風の原色の鮮やかな花は天上の楽園でさえある。旅をする者がみるコモは、あたかも日常瑣事や経済的な慮り、そんな生の一部である懸念の粒子一粒さえもなく、自然美をただ讃える次元にあるのだ。

 わたしは、恙なく会社員を務めてきた身である。運よく希望の出版業界に就職できたものの、就職先は中堅会社。それに、動画の時代である。同じことだが、本離れの時代ともいわれている。不振が続く業界のため、私に続く新人の採用はたったの一人である。そのため、努めてから10年になるが、未だ新人と一緒に雑用もこなしている。わたしは今まで一人で雑用をこなしてきたのだが、それでは荷が重いから、共にこなす、それに何ら問題はなく、むしろ不思議とやりがいをもたらすが、大きな仕事を簡単には任せてもらえない不満があるのは自覚している。そのネガティブ感情のはけ口となってくれるのが、イタリアへの情熱であり、またそのイタリア愛の出口であるブログの更新である。表現は、ここでは自由なのだ。人は自由を求める割りには己を縛るものに気が付いていないのだと思う。きっとわたしも多分にそうなのだろう。しかし、ブログの場でわたしは自己の情熱を開示する自由を遺憾なく味わっている。

 そんな日常を生きるわたしにとって、憧れの土地であるイタリアへの渡航、それに旅費も出してくれ、有給であることは、運が良かったと言える出来事だと思う。地元のガラガラ抽選で、せいぜい大きなティッシュケースが1ダース分、当選したのが良い方だった身なのに、だ。しかし、今こうしてミルキーブルーの湖水を目前に、優雅に香り高い紅茶をいただいている。この運がどこから巡ってきたかというと、大学以来の知り合いである窪田氏からだった。持つべきものは友?この表現は、今回はなんだか現金に過ぎる気がして胸元が嫌悪感でざわつくから控えるが、持つべきものは友。そう、本当にそのとおりだと思う、持つべきものは友。コロナで会う機会が減っても友人との繋がりは喜びを生む。しかし、渡航は有給、つまり一応お仕事らしいものがある。
それは、窪田氏の知り合いの知り合いのインタビューである。話が少しややこしい?窪田氏も窪田氏の知り合いもわたしも出版業界の人物である。今回その窪田の知り合いが、コモ地方のとある成功者の話をひとつの本として出版する計画を立てているという。成功者は、イタリア語を話せるインタビュアーを探していた。成功者、それは一般的な意味での成功者である。実業家としての成功である。

 成功というのは、生きている人の数だけあるのだろう。今まで生きてきた時間は長いのか短いのか、それは人の主観によるところだけれど、これまでの人生で自分は成功者とは言えないと考えてきたような人でも今、この瞬間に、過去のすべてを肯定的に受け入れるようなことがあれば、その途端に人生の成功者となる、そうわたしは考えている。これはわたしの持論だろうし、多分に女としての視点なのかもしれないが、きっとこの世の中に一人、二人でも賛成してくれる人がいるのじゃないかと希望し期待している。わたしは、最初の一人になる勇気をもとう。

 わたしのイタリア好きは、筋金入りだった。あの身振り手振りの表現が大きい人々が好きだった。ローマ時代に開花した実利の哲学と人間の欲望の興亡がまるで乾いた大地が雨を吸うように染み渡ったローマが好きだった。
 イタリアの自然の景観も大好きだ。コロナ禍で渡航に二の足を踏むようになるまでは、休暇をとってはイタリアの絶景を訪れた。前回訪れたのは、2004年世界自然遺産に登録されたオルチャの谷、ことヴァル・ドルチャである。2年前の旅なのだが、記憶は繰り返し脳内から取り出され、その度に温められている。なだらかな丘陵は、オリーブ色とモスグリーンの世界、深い緑色と黄緑色、疎らに散在する縦長の杉、眺めるだけで、ギリシャ神話に登場する山羊の角と脚を持った半獣神のパンの笛の音が聞こえてくるようだった。ローマ神話ではファウヌスと呼ぶ。その笛の音は、地球の温かくやわらいリズムと調和する。牧歌的で母のような丸みのある緑の稜線に心が震える記憶。



 イタリア映画の独特の影と光も好き。ライフイズビューティフル、インフェルノ、グランブルー、自転車泥棒、トスカーナの休日、胸騒ぎのシチリア、ローマの休日、ローマでアモーレ、8 1/2、道。イタリアを舞台にした映画もその場に居合わせたといえるほど鑑賞した。  
 根っからのイタリア好き、だから大学からの知り合いで会社の同期の窪田からお声がかかったのだ。知り合いというより、もっと近い。友人、ましてや親友と気遣いあうわけでもないが、どこか気心がしれて無条件に互いのためになることを提供しあうような知り合い。人として信頼しあっているから、懇親の仲であると言えるけれど、敢えて知り合いというスタンスを保っている、と言った方がいいかもしれない。異性だがなぜかよく顔を合わせる奇妙な縁。
「イタリア好き、それは認めるけど、イタリア語の実践はそんなに自信ないよ。」
そう伝えたのだが、窪田氏はわたしにこのラッキーチケットを渡したがった。
「気にする必要はないよ。聞くことができれば問題ないんだ。インタビューの内容は予め決まっているからさ。こんなついてることって、早々ないよ。まるまるひと夏だよ。会社は有給めいっぱいとればいいし、在宅勤務推奨なご時世だから、そうそう支障はないよね。」
「うん、それはうちの会社も問題ないけど、まさか、ギャング方面じゃないよね。」
「映画の見すぎだよ。」
 インタビュー相手やインタビューの場所、日程、細かいところまでを確認をしても躊躇があったのだが、窪田氏も行くと聞いてから快諾したのは、ちょうどひと月前のことだ。
 わたしは、ビジネス用の00の腕時計を見た。午前10時50分真南に昇りきってはいない太陽は、的皪とコモの湖を照らしている。顔を上げるとテラスの入口付近で珍しくビジネススーツを着た窪田氏が見えた。わたしは立ち上がり窪田氏とテラスを後にした。
 ここからは、イタリアロンバルディア州コモ県ベラージョの滞在で、インタビューアーであるイタリア人成功者との出会いと、彼の口から話される物語を綴ろうと思う。
3⃣

でしゃばらない好感度に一糸の乱れもないホテリエは、わたしたちをホテル最上階のスイートルームへと案内した。
 上階のホテルの天井は白いイタリア漆喰に交差ヴォールトのつくりである。わたしは慨嘆しながら天井を見上げた。ホテリエは、わたしの感嘆の様子を察したようで、「ロマネスク様式にならって天井をつくっております。クラシカルとモダンの接点をテーマに最上階はデザインされております。どうぞ、壁もご覧ください。当ホテルのオーナーが選んだ絵が飾られております。」

白色が基調の廊下の壁は、小花の模様があしらわれていた。貴族の田舎の別荘地で見られるようなクラシカルな模様だったが、たしかに新しいエッセンスが少し五ばかり加えられている。壁には、等間隔に鉛筆で書かれた風景画や一輪挿しの花の油絵が飾られていた。わたしは天井やら壁やら壁に飾られた絵やらを遠慮がちに鑑賞したつもりだが、おそらく大層な美術館にでも来館したような様子だっただろう。
 廊下の突き当りに来ると、ホテリエが「この部屋でございます。」と言った。ホテリエは濁りのない物腰で角部屋の扉を開けた。カードキーの音がした。室内は広々と開けていた。襖を取り払った日本の本丸御殿に入ったような開放感があった。内装は目を引くような鮮やかな色を避けた上品な色調でまとめられていた。窪田氏とわたしは無言で室内の麗しさに目を合わせた。
 東京のわたしの部屋のゆうに20倍はあるだろう。広がりのある空間は、地上の理想的な生活がもたらす平和と寛ぎ、それから贅が至高のバランスを保っていた。
 王宮や貴族を思わせる贅というより、贅をぬいた贅の極みのような内装で、富の権威性が前面に出るような豪奢な贅になれないわたしでも抵抗感をおぼえることも気後れすることもなかった。ただ、脳内から全身へと快を駆け巡らせる調和の視覚に息を飲んだ。
 インタビュー相手のヴィンチェンツォ氏が、わたしと 窪田氏を温かく迎えてくれた。ヴィンツェンツォ氏は、胸元からハンカチーフをのぞかせたクラシコイタリアなスーツと先の細い革製の靴を履いていた。申し分なく、非の打ちどころがない成功者のオーラを漂わせている。
「ようこそ、イタリアコモへ。コモ湖のすばらしい景色と当ホテルのサービスを心行くまで楽しんでいってください。
 コロナでなかったのなら、ハグの絶好の機会なのですが、お預けとしましょう。」
 ヴィンチェンツォ氏の小麦色の整った顔には、初対面ながら警戒心を起こさせない洗練があった。ホテルの支配人の歓待というよりは、少しランクの高いレストランで窪田氏の知り合いに偶然出会い、挨拶を交わしているといった具合であった。室内へと導かれたわたしたちは、ヴィンチェンツォ氏のすすめるまま絹の光沢のシンプルなソファに腰をかけた。予期したように腰が深く沈むソファではなく、窪田氏とわたしははほどよくよい姿勢を保った。
 異国、空間のもたらす雰囲気、イタリアン人男性ヴィンチェンツォ氏の初対面の対応、加えて、場の空気感に染まりやすいわたしは、映画の一コマに迷い込んだような錯覚をもたらした。
「ドリンクに何を召し上がりますか?」
ソファから少し離れたところにあるイタリア大理石の小テーブルには、ブランデーと氷の入った銀製の入れ物が置かれていた。
あ、いえ大丈夫です、今いただいてきたところなので、そう言いかけたが、変わりに、
「アランチャロッサでお願いします。」
と言った。無駄な時間を省くためと、何か手に取りたい気持ちになることもあるかと思ったからだ。アランチャロッサは、ポラーラ社の地中海のシチリア産ブラッドオレンジの炭酸飲料。探せば東京でも飲めて、イタリアを近づけるためにときどき口にしてきたドリンクだ。
 窪田氏は、

「カッフェ・グラニータ、ペルファボーレ。」

と、癖のあるイタリア語で言った。カッフェ・グラニータは、とても甘いアイスコーヒーである。窪田氏は、甘党だ。多くのイタリア人も朝からお砂糖を驚くほど入れた珈琲を飲むことがある。しかし、イタリア人もスリムな人が多い。フレンチパラドックスならぬ、イタリンパラドックスだ。

 ヴィンチェンツォ氏はホテリエに目配せしただけだった。ホテリエは敬礼をするとその場を去った。束の間沈黙が流れた。ここはイタリアだから、さしずめ天使が通ったというところか。
 わたしは、対面のソファに座るヴィンチェンツォ氏の方に少し顔を向けた。改めてどきりとした。
 ヴィンチェンツォ氏は30代の終わりか40代半ごろに見えた。かのアランドロンと肩を並べるだろうかというような整った顔立ちをしており、瞳は先刻テラスで眺めたコモ湖の写真のような水色をしていた。初々しい若さの面影に代わって、ダンディズムと呼べる大人の男の色気というようなものが備わりはじめている。知性的かつ情熱的な雰囲気の持ち主だった。魅力的、誰でもそう思わずにはいられない風貌である。
 この場所にいなければ、容姿端麗、それだけで食べていけるのではないかとわたしは考えただろうが、初対面の相手に早々そんなことが脳に浮かぶような隙がなかったか、それとも非現実的な現実にわたしの認識が追い付かなかったのか、有無もない状態でソファにクッションと同一化したように納まっていた。
 彼は、自己紹介を始めた。
「改めてはじめまして、シニョリーナ高木。ヴィンチェンツォです。ホテルドサンソーネへようこそ。日本の若い女性にお目にかかれてとても光栄です。滞在を楽しんでいただけているでしょうか。コモ湖の景色を一日眺めれば憂いが消え、2日眺めれば希望が生まれ、3日眺めると、永遠の恋に落ちます。既にコモの景色はあなたの美しさにも輝きをもたらしたようです。
 窪田氏からご紹介していただいていると思いますが、わたしは当ホテルと5か所のレストランの経営者です。若くて美しい方で嬉しい限りです。」わたしはきっと時間が静止したように、面食らった様子だったと思う。いよいよ、ソファのクッションだ。わたしは美しくなどない。それに33だから、若くもない。日本人は若く見える、それだけだろう。イタリア人男性と日本人男性の女性の接し方の相違には慣れっこになっているはずだったが、わたしは当惑していた。


「もう話はお聞きかと思いますが、今回このインタビューアーにあなたを是非とお願いしたのは他でもないわたしなのですよ。」

おかしい、渡航予定となっていた人がコロナワクチンを接種を避けたためにわたしが代理となったのではなかったのか、


「そうでしたか。」

わたしは精一杯の冷静さで答えてから、窪田氏の方を向くと含み笑いをみせていた。
「ホテルとレストラン経営の成功談を聞きたい、そんな問い合わせは山と来るのですが、これまですべてお断りしてきました。しかしわたしが幼い頃から目指してきた成功の域に達してから、これからの新しい未来のことについてを考えることに多くの時間を費やし始めました。あるときわたしは、心の中で誰かを希求していることに気が付きました。わたしはこの街に捧げる情熱に耳を傾けてくれる人を求めていたのです。これまで、どんな障壁にもひるむことなく、目的へとわたしを突き動かした原動力について、理解を示してくれる人を求めていたのです。長年断ってきたインタビューを受け、半生について語ろうと考えてこら。インタビュアーにはこだわったのです。多くの人を探しました。どうしてもという人が見つかるのに3年かかりました。シニョリータ高木、あなたです。」
「光栄です。是非お話をお伺いしたいと思います。宜しくお願い致します。」
わたしは冷静を保ったが、ここでも面食らった。窪田氏の説明との不適合に合点がいかないだけではなく、初対面の相手にイタリア好きを見通されたかと思ったのだ。まさかそんなことはないだろう。イタリア人は、概して人との距離を縮めるときにこういう方法を使う傾向があるのだろうか。むしろ経営者としての一流の人心掌握術といったほうが適切なのかもしれない。
4⃣

飲み物が運ばれてきた。窪田氏のアイスコーヒーに、ヴィンチェンツォ氏はエスプレッソ。わたしは、ブラッドオレンジのカットとブーゲンビリアの花があしらわれたアランチャロッサ。
「いただきましょう。」
ヴィンチェンツォ氏が、二人の遠慮を取り払うようにはじめに小さなデミカップを持ち上げた。窪田氏とわたしが続く。赤オレンジの炭酸入りジュースは、舌と喉元を刺激した。沈黙のあとに、ヴィンチェンツォ氏が口を開いた。
「この街とこの湖畔の美しさをわたしの目が青いうちはずっと守り続けるつもりなんです。これがわたしの志です。
 ここからの景色も最高に美しい、そう思いませんか?」
ヴィンチェンツォ氏は誘う様に湖を見たので、自然窪田氏とわたしは目線を明るい湖に移した。
「シィ。無二の美しさです。眺めるほどに地上に永遠があるかのように思わせるようです。朝から夕にかけて、刻々と表情を変え、水面の色を変え、波の様子も変え。」
「すばらしい。ベリッシモ。最高です。」
美しい、それはコモの地に着いてから目に入る景観にわたしが抱いてきた感想でもあったが、母国ではこの言葉は雑誌か小説か美学書でお目にかかるぐらいのものだ。しかし、彼の口からは頻繁に発される。
「さぁ、早速ですが、この湖畔の守護者となると決意するに至った経緯をお伝えしましょう。」
わたしがする事になっていた質問を、ヴィンチェンツォ氏が自ら口をきった。
「決意、それよりもわたしはミッションだと思っているのです。高木さんは、ミッションとすることがありますか?」
質問するはずが、質問を受ける側となりわたしは当惑した。ミッション。使命。考えた事がないわけではなかった。使命、そのためにうまれてきた、といえるほど遣り甲斐を覚えること、だろうか。それとも、産まれる前から行うことを決めてきたことだろうか。そのようなものがあるのだろうか。可能性としてゼロではないが、今こうして自問するぐらいだから、仮にあったとしてもはっきりと覚えていないのは事実だ。
「ミッション、ですか。わたしはまだ見つかっていないようです。敢えていうのなら、この命を大切に生きる、それだけです。」
わたしたち、人は幸せになるために生まれてきた、それ以外に何があるのだろうか。できれば今というときに集中して、好きなことに情熱を注ぎ、ままならないことはなるべく快適にやりすごせるようにする、改善できるのならば改善の歩みを試行錯誤で進める、そんなわたしの今までの生活に使命というようなものはないように思った。
「すばらしい。日本の哲学があるように思います。ミッションは、日本語で”SHIMEI”、命を使う、と書くそうですね。」
「あ、はい。」
確かにそうだ。ラテン系の語源は、伝える、だったはずだ。母国語とは少し違う。
「わたしは、この湖を育て守ることに命を使うのです。使命であり、ミッションです。」
わたしはヴィンツェンツォ氏の瞳に熱がこもったのを見た。ヴィンツェンツォ氏は私を見ながら微笑んだだけで自身の情熱に理解を求める風ではなかったが、日本では感じられない類の情熱が伝わり、わたしの生命力にも飛び火した。わたしがイタリア的と呼ぶ人間的な情熱。ラテン的、そう呼んでもいい。わたしにとっての異国の魅力だ。
 これはわたしの使命だ、そう決意し信念となるほどミッションの価値を信じ、使命を果たすことに生きる。それはもしかしたらとても充実度も時間密度も高い日常なのかもしれない。
 わたしの使命。お仕事?まさか。イタリア好きは使命?何らかの形で使命に繋がるということは可能性としてあるもしれないが、趣味としてとらえる限りミッション足りえない。使命といえば、個を超えたところにゴールがあるように思う。つまり、自分の外側の何かをより豊かにする事に使命たる何かがあるのではないか。そして使命を果たして行く過程そのものが、当人も潤す。自らの内発的な情熱と自分の枠を超越したところにあるゴールへの欲求が適合したときにそれは”ミッション”といえるのかもしれない。わたしは、ただのイタリア好き。そんな高尚なものではない、そう思ったのだが、 ヴィンチェンツォ氏の眼差しは、何か心の中で眠っているものを目覚めさせ高揚させる何かがあった。


5⃣
「わたしは、この町で産まれ育っている生粋のコモ湖育ちなのですよ。しかし、あなたがこの街に抱くようなセレブリティーな家庭に生まれ育ったわけじゃない。」
ヴィンチェンツォ氏は水色の瞳を日の白光を受け輝くコモ湖に向けた。
「いわゆる母子家庭です。
今は、母はいません。あの湖で眠っているのです。」
わたしは、湖を見たのは自然の径路であった。それから、目を腕時計に落とした。午前11時10分。湖は明るい光彩を放ち ヴィンチェンツォ氏の瞳の色に近づいてきた。
「わたしの母は、コモの下町に生まれ育たのです。中世よりも前からこの湖は多くの人を魅了してきました。ローマの皇帝や多くの芸術家を魅了してきた景色です。母が産まれた頃には、コモの自然美は広く知られ、世界中から富をもつセレブリティーが集まってきました。次第にこの街に彼らが描く人生の情景が作り出されていきました。自然の豊かさに、富の豊かさが加わり象られていったのです。街は、一般層と富裕層にきれいに分かれているようだった、と母は言っていたものです。なに、それは農耕以来、西欧の歴史としては変わらぬ姿ですよ。富めるものはますます富み、もたぬものはますます貧しくなる。ときに、この格言をやぶるものも現れます。わたしのように。
 日本は、とても平等と聞きますね。成功した社会主義などと言われていたこともあるぐらいですね。シニョリーナ高木さん、母国にはどんな実感をお持ちですか?」
再び質問を向けられたわたしは2秒ほど怯んでから答えた。
「平等かどうかはわかりませんが、人との同質性を好む文化だとは思います。良いようにも悪いようにも働くのは、どのような性質でも同じなのだと思いますが、好きではありません。出る杭をうつ事があるからです。日本にも貧富の差はありますが、確かに西欧社会ほどではないのかもしれません。もしかしたら、大きな差異を好まない文化背景のために、わたしたちは富の差を目立たなくさせているだけなのかもしれません。
 日本は、みんな仲良く刻一刻と経済的に、沈んでいっているとも聞きますし、そうかもしれないとも思うことがあります。アメリカのように顕著ではありませんが、貧困問題が少しずつ表面化しているからです。しかしわたしたちの国は助け合いの国、思いやりの国、いずれ多くの人たちが手を差し伸べ、頭と身体を動かし、問題は解決へ向かうと考えています。日本が経済大国ではなくなり、世界からお金の投資対象として外れ、お金の巡りが悪くなったとしても十分楽しい生活を送ることができるようになっていくようにも思うのです。そうであると信じたい、もしくはそうであってほしいとの希望的観測なのかもしれません。」
わたしは滔々と話した後、閉口した。意外だ、わたしはこうやって自国を思ってきたのか、そう思った。
「わたしも日本を思いやりの国だと考えています。日本に言ったとき、日本人は他者への配慮を兼ね備えた、驚くほう精神性が高い人たちばかりだと思いました。」
「ありがとうございます。」
「セニョリータ高木は、日本を愛しているのですね。」
「イタリアこそが大好きな国だと思っているのですが、こうして意見をしてみると、自国のことをとても大切に思っていることが分かりました。結局のところ、自国のことはおろか、自分のことも未知だらけということもわかりました。」
わたしは、異質を排除する傾向がある同調圧力の強い日本が好きではない、はずだった。わたしは、少し微笑んだと思う。Ⅴ氏も呼応するかのように微笑した。
「他国に出ると、自国が見える。他国に出た事で自国への思いが見える。その逆もあるのかもしれませんね。何でも距離を置くと物事がよく見えるというのは、おかしなものです。理解しようと近づきたいのなら、一度遠ざかることひとつの方法だということでしょうか。」
当然と言ったら当然だが、クラシコイタリアな着こなしが身体に馴染んでいる。ヴィンチェンツォ氏は、凛とした雰囲気を損なうことなく一息ついてから続けた。
「 コモ湖を日々みるにつけ、わたしは思うのです。こうして水面の波の様子のようにすべては刻一刻と変化していく。しかし変化の速度の緩慢さのためにわたしたちはそれと気が付いていない。目を向けたくない変化なら、殊更見えないものです。
 日々の変化が見えないのと同じように、人は自国のこと、自身のことをわかっているという錯覚をもっているものです。本当はだれもがよく知らないのでしょうし、知ることで人生が大きく変わることがある。しかし、知る必要があるという外界からの働きなり圧力がない限り、無知を知ることもないものです。」
「そうかもしれません。世の中、知らないことだらけです。自分のことも。
「『人の思考がどんな努力をしても、たったハエ一匹の本質さえ語りきることはできない。』これは、トマス・アクィナスの言葉です。何かを知ることに果てはないのかもしれませんね。
シニョリータ高木、よく言われる事ですが人は今が最も若い。たとえ果てがなくてもこれから何かを知ろうとすることは、尊いこと、中でも知っているようで知らない自分自身をより深く知ろうとすることは、取り巻く世界を有意義で豊なものとするとわたしは考えています。
セニョリータ高木も是非、ご自身の事を知ろうとしてください。あなた自身の中に豊かさと美しさを見いだすからです。」
イタリア人の男性は、こうも人たらしなのだろうか。”イタリア人”、そいう一般化するのは、きっとふさわしくない。ヴィンツェンツォ氏ならではなのかもしれない。氏は続けた。
「わたしが知りたいと思ってきたのは、他ならないわたしの母についてでした。
母が母となってからの人生をおそらくこの世で存在する誰よりも知っていると自認します。しかし、それでも知っているとは言えません。
ここからは、私の母の話をしましょう。」
6⃣窪田は、アイスコーヒーを手にした。
わたしは朱色のジュースを一瞥したが、すぐに
ヴィンチェンツォ氏に視線を戻した。
「母は、若い時分、コモ湖の祭りでわたしの父親となる男性と出会いました。
母は美人でした。母が美人、それはどのみち産まれいでし男性がほぼ例外なく母親に抱く感想でしょう。しかし、私の母親は本当に美人なのですよ。ほら、わたしを見てほしい。わたしは美しいでしょう。」
わたしは一瞬ひるんだが、冷静にこたえた。
「はい、あなたはとても素敵です。」
語学の教科書にのっているような文章で一抹の恥ずかしさがあったが、外国語を習得するというのは恥の連続、引きずる必要はない、いつものように考えながら自分を慰めた。それから改めて彼のルックスをジャッジするような視線を向けてしまっていたことに気が付き、わたしはすぐに目線を落とし目の前のドリンクを今度は手に取り口にした。甘酸っぱさと、炭酸の刺激が心地よかった。
 確かに彼はルックスがいい。
「わたしは母親似。母の美しさの生き証拠ですよ。」
彼は自らの容姿にナルシシスト的に満足しているというよりも母親に似ていることを誇るからこそ、自らの姿を愛しているようだった。
「母とセレブの子息は、熱愛だったとそうです。幼いわたしは、母の語る恋物語に聞き入ったものですが、大人になったわたしは母は多分に自らの過去を美化していたのだと思うようになりました。美化する、その才は人生をいいものにするために、ときに苦難を乗り越えるために、人に与えられたギフトで、母はその才を使える人だと思ったのです。
しかし、母が死んだときに残された手紙をみたとき、それはなまじ嘘ではなかったとわかりました。
今でこそ、電子メールですんでしまうところ手書きでつづられた文字には、かき手の息遣いまで伝わるものです。
『君は僕のベアトリーチェ。地獄にでも天国にでも君の笑顔をみるために僕は駆けつける。
たとえ、ヘラクレスのはいた翼の靴がなくても君が望めばたちどころに目の前に現れて君を抱く。
君を思うと僕の胸は、原始地上で存在したどの活火山よりも熱くなる。僕のアリーチェ、コモ湖のブーゲンビリアが咲くあの茂に、
日が沈む前に君を見つける。』
『吹き飛べ 嵐がきている。僕の思いなどこの嵐と吹き飛んでしまえば僕はいますぐ屍になれる。
しかし、どうだ?
嵐は、コモの木々を揺らしざわつかせしならせるというのに、
根はしっかりと地上に立ち葉は色褪せずに緑のまま風にゆられるままだ。
吹き飛ばすどころか、動きをえて愈々力強くなっているではないか。
君を諦めるなんてどんな嵐でも不可能だ。』
赤面の文章です。なかなかの詩人じゃないですか。」
ラテンの血だ、わたしはそう思った。紅潮したのはわたしかもしれない。
7⃣
「母はやがてみごもった。わたしですよ。
二人は結婚の約束をしたのですが、そう簡単にはいきませんでした。
子息に恋する女性が現れ、家族をその女性を強く押したのですよ。
恋愛は、期待と陶酔と希望だけではできていません、
疑念や誤解、すれ違いでもできているのです。
操り糸が二人に絡みつき、二人はほどくことができなかった。
小さな疑念に大きな杭を打たれたのです。
二人は、別れることになりました。」
わたしは、落ち着いて聞く風をしたが、かなしい気持ちになっていた。悲恋というのは、どこの国にでもいつの時代にもあるもの。だから物語にもなる。あのロミオとジュリエットは14世紀のヴェローナ。アンデルセンの人魚のお話も切ない哀しさがあった。日本はどうだろう。平安に読まれた短歌には恋の哀しさを歌ったものが多い。天女に恋をしたが、羽衣と子供と共に天に帰ったという男性の物語もあった。他には・・
「母は、あの湖で眠る、
そういいいましたが、自殺をしたわけではありません。」
哀しそうな表情のわたしをみて、ヴィンツェンツォ氏は自死を否定したようだった。
「わたしの母は勇敢でしたよ。果敢に運命に対峙しました。
女性ながらディプロマをとり、教員として働きわたしを育てたのです。
母も女性ですから、幼い私に言ったものです。
『好きになった人と離れ離れになるってね、
心臓をもっていかれたような痛みが走るものなの。それは喪失感だったのかしら。愛は、いつのまにか体の一部になってたのかしら。ママには、あの苦しさは謎だわ。ねぇわたしのバンビーノ、あなたは愛の謎解きができるかしら。
ママは正直に言うわ、痛みに耐えられそうにないし、生きていても仕方がないから、死にたいって思いもしたのよ。弱いわね。でも、あなたがいるから踏みとどまれたの。
あなたの存在のおかげで今こうして息をしてるの。
力は弱さの中でこそ充分に発揮される、って聖書にあったわね。
ママの弱さと、あなたがわたしを強くしたのかもしないわ。
この土地を離れれば少しは気分が楽にあるのかもしれないって思うこともあったのよ。
土地を変えると、記憶がまっさらに近づくもの。人は、物理的な場所やもので記憶を想起するものだから、意図しなくても目にはいれば思い出や感じていた感情が沸いてくるもの。
でもね、バンビーノ、あなたの瞳があるからどこに行くこともやめたの。
あなたのその瞳の色は、コモの湖と同じ。
それから、あの人と同じ。
あなたの瞳を見るたびに思い出さずにはいられない。
だからね、この街でい続けることにしたのよ。』
と。
こうもいいました。
『ママだってこれから新しい恋をするんだから。』
実際に母はもてましたし母を慕う男性が僕のことをかわいがってもくれましたが、母は結局誰とも深い関係を築こうとはしませんでした。
時間ができると、窓辺に置いた椅子に座り、
コモ湖を眺めている母をわたしはよく見たものです。太陽の角度や翳り具合、それから季節ごとに違う表情を見せる湖を楽しんでいるのです。
母は、景色をみては穏やかに微笑んだりしましたが、かなしげな顔になったりと湖のように表情を変えていました。
意図しなくても過去へと思いがはせることがあったのでしょう。」
ヴィンツェンツォ氏は、一息ついてから続けた。
「わたしが、富を得ることを固く誓った日のことをおはなししましょう。
ある夏のことです。祭りでわたしは父を見たのです。
母はあれが父だとはいいませんでしたが、あれは間違いなく父でです。
父は親子連れでした。夫人と夫人の母親らしい人も来ていました。彼女たちは高級品で身を包み、貴族的であることに優越感歩いていました。
なに、よくあることです。彼らは自分を特別だと思っている。
自ら掴んだわけでもない富にプライドを置いている。
みながみなではありませんが、彼らは持たぬものと命のたっとさが異なると心底思いあがっているのですよ。」
ヴィンチェンツォ氏に会ったとき、独特の誇りのようなものを察知したが、それは自らが持つ富によるものというより、自らの才覚の発揮により積み重ねてきたことへの誇りだと思った。
「矛盾するような言い方ですが、実際に彼らは違うのです。富をもっているということと、もたない、その点において現実に違うのです。」
ヴィンチェンツォ氏の顔に少し幼少の頃抱いたくやしさのような影が見えた気がした。
「父は、母を見つけるとしばらく静止して驚愕に近い表情で母を見ていました。母は母で、心臓が壊れるというような悲痛に近い表情を浮かべていました。
二人の様子に気が付いた配偶者は、これ以上はないかというほどの蔑視の目を母に向けてから父の手をひきその場を離れました。
母はそれから無言に近くなり、無理をして楽しそうにしているのがわかりました。手に力が入らないとみえわたしとつなぐ手が緩くなったのも記憶しています。
何よりもあのくやしさを忘れることは、ありません。
母を見るあの侮蔑に満ちた目、わたしはこのとき母に富とやらを味わってもらうと固く誓いました。」
わたしは字のごとく唾を飲んだ。それから、氷のとけかけたアランチャロッサを口に含んだ。
大きな富を築く人というのは、何か大きな心理的なきっかけがあると考えていたが、ヴィンチェンツォ氏にとってはこのときなのだろうか。
ヴィンチェンツォ氏は続けた。
「わたしは、あの対比を忘れることはありません。
知性的でそしてコモの自然美を愛する母。
母こそ、わたしの母こそ、地上の優雅さにふさわしい。富がもたらす安心と、それから至福にふさわしい。
わたしは、悔しくて悔しくて仕方がありませんでした。屈辱です。今でもそのくやしさを再現できるほどですよ。」
ヴィンチェンツォ氏は微笑んだ。
「あるとき窓辺でコモ湖を眺める母に言ったものです。
『僕が絶対に絶対にママをリッチにしてやる。優雅な時間をプレゼントする。だって、ママこそが似合うから。』
そういうと、母は、笑っていました。
『そんなこと、いいのよ。わたしはある部分では、これ以上はないと言うほど充分に幸せだから。
負け惜しみって言われるかもしれないわね。
そんなことないのよ。
その分だけ、この景色を愛し、楽しみ讃えるのよ。
その分だけ、あなたを大切にできるのよ。』
そう言って、幼いわたしを抱きしめました。
『そんなのうそだ。だれだって、お金もちに暮らしたいんだ。全部満たされたほうがいいにきまってる。』
『あなたは、本当に聡明な子ね。そうね。そうかもしれないわね。だから負け惜しみかもしれないって言ったのよ。でもね、本当に幸せなの。まがうことなく大いに満たされているのよ。
富は、平等なんかじゃないわ。
そもそも人の世に、平等なものなんて、少ないのよ。
命の尊さは平等。これでさえも理念の世界でまかり通っているだけなのよ。
時間だけは平等にあるって、
人は言うわね。
考え方によっては、それも違うわ。
時間は、使い方を知っている人がたくさん持つのよ。健康であればなおさら人生の時間は長くなるわ。
あなたは聡明な子だから、時間の使い方を極めていける。
それにね、
ほら、この景色、分ごと、壱日ごと、季節ごとに様子を変えるコモの湖で感動する心だって、
人は平等には与えられていないのよ。
わたしは、これにはとっても恵まれているの。とてもよ。
それと、子宝にね、バンビーノ。』
そう言ってわたしを抱きしめました。母に抱きしめられると、なんともいえない安心感と温かさを憶えたものです。それは、母に愛されたものだけが知る温度なのかもしれません。わたしも恵まれていたのですよ。」
8⃣
わたしが、ここでイタビューすることは、
たったの2つだけ。
1つ。経営者になるに至ったヴィンツェンツォ氏のバックグランド
それから、
2つ。これからのビジョン。
録音をとっていいとのことで、メモをすることもない。
ただ、彼の話に耳を傾けるだけでよかったし、傾聴の努力は一切必要がなかった。
ヴィンツェンツォ氏が話すと、注力はおのずとそちらに向いた。
わたしは、一瞬腕時計を見た。
現在11時半。
「ドリンク、飲みなおしましょう。いかがですか?」
ヴィンツェンツォ氏が頭の中にある思考や記憶から離れて、今に戻ってきたように言った。
「大丈夫です。」
わたしは即答し、G氏は再びアイスコーヒーを頼んだ。
ボールペンほどの小さな無線のようなものでv氏はフロントに注文を出してからこちらを向いた。
「あと30分で、一気にお話ししましょう。わたしは、今できることをしておかないと気が済まない性質でして。シニョリータ高木、大丈夫ですか?」
「あ、はい。」
「今までの話で、何か質問はありますか?」
わたしは窪田氏を見た。窪田氏は、眉毛を上に上げて目を大きくいした。自分で答えてと伝えていることはわかったが、窪田氏がこのような意思伝達をすることを今までみたことのなかった。外国のジェスチャーが身に付いたのだろうか。
 わたしは一旦目を伏せてから答えた。
「ヴィンツェンツォ氏がコモの地でリゾート王と呼ばれるほどになったきっかけはお母さまへの格別な敬愛があったということでしょうか。」
「すばらしい。そのとおりです。
わたしが富というものを手にすることを固く誓い、そしてこのコモの湖の自然美を守り続けることをミッションとして生きるに至ったのには、
もうひとつ重要な出来事がありました。
あれから、母は職を追われたのです。父親の夫人たちの一族の圧力があったのは明らかでした。母は、落ち度なく職をまっとうしていました。しかし、あらぬ噂を流されました。わるい噂とは早く伝わるものです。母は信頼に大きな傷をつけられ、しまいに学校長から辞職を迫られたのです。
母は、校長に無辜であることを何度も訴えました。校長の返答は変わらず、結局解雇となりました。その際、あの一族から圧力がかかっているからどうしようもないと打ち明けたそうです。
母は、職を失い、街からの信頼を失いました。それから、意欲というものが母から消えて行きました。
人は、失意で病を得るものです。弱った生き物を狙うハイエナの群れのようにあたかも病が弱る母を待っているかのようでした。母を支えていた何かが崩壊し、母は朝に小さな幸福を楽しむ力、晩に今日を慰め明日に希望する力、生いきる力そのものを失っていきました。
もしかしたら、このときまで、必死に頑張っていたのかもしれません。がんばっては続かない。母は、楽しみを求めることがなくなってしまった。楽しみが上回らなければ生命力は補われない。
母がなくなるとき、わたしに残した言葉はこうでした。
『早くに逝ってしまうわ。ごめんね、愛する息子。でもね、母親としてはこれ以上幸せな母はいないのよ。
あなたを授かって本当によかった。
わたしの分まで生きて、あのコモ湖をめでて愛してね。
自然を愛する心があれば、あなたはずっと幸福でいられる。
ママはコモ湖にとけてあなたを見守っています。』
母は、未来への期待や希望を失っていましたが、たとえ生命の力が病に侵されてもコモ湖をめでる力だけは辛うじて失っていないようでした。力というよりも心、母の魂そのものと言った方が相応しいかもしれません。
シニョリータ高木、
こうして、わたしはコモ湖の守護者になったのですよ。」
コモ湖への心だけじゃない、ヴィンツェンツォ氏を思う心も失っていなかったのですね、そんな感想を言いたかったが、言葉がでなかった。
「富を築く過程をお話するのは、またいつかにしましょう。みなの知りたいところはそこでしょう。
しかし、言わせてもらいますが、
富を築いた経営者たちは口にすることと似通って聞こえますが、
どの人の真似を尽くしても成功には辿り着かないでしょう。
断言できます。成功者たちの体験本は、動機付けや勇気が得られることはあるかもしれませんし、参考になることもあるでしょう。しかし実践の絶対的な教科書にはなりえませんよ。
成功するには、自らもつ資質を知り、己と動かす必要のある人を動かす方法を知り、置かれた環境を知る必要があるからです。
成功に失敗はつきものです。失敗から学び、快復する不屈の精神力も必須でしょう。不屈の精神力の底には、成功への信念があります。自分なら必ず成功できると信じることです。
そして、己の中にあるあらゆる力を悉く描くビジョンの実現に集中するのです。
ご存じ、人は、己を取り巻く環境もみな違います。
そもそも異なる記憶を持ち異なる脳の特質をもつ身体に宿っています。
ですから、成功への道筋は千差万別、銀河の星の数ほど、幾億とおりもあり、それは成功を望む者が自らをもっぱら頼り、探し出さなければならないのです。
自身のことを可能な限り知り尽くし、周囲を観察し知り、どのようにヴィジョンを実現させていくかを練る。この方法を知ることこそ成功を望む人がまず知るべきことではないでしょうか。」
わたしは、孫氏の有名な一文を兵法を思い出した。
『己をしり敵をしれば百選危うからず』。
人生を戦いにしたくない、だから”戦いに勝つこと”に興味がなかったわたしに、父が社会人になったときに読めと渡したた本の一冊だ。
どうして、孫氏が今も読まれるかわかるか?それは今も通用するからだよ、父はそう言っていたが西欧東欧関係ないく人類に普遍的に通じること、当然だけれど、わたしも人間だ。興味がない、それを少しは改めるのもいいのかもしれない。わたしも人間なのだから。
ヴィンツェンツォ氏は腕時計を見た。
「11時45分ですね。シニョリータ高木、ランチの前にインタビューを終わらせましょう。次は、これからのビジョンの話です。」
またしてもわたしが質問するはずになっていたが、ヴィンツェンツォ氏がインタビューを進めた。
9⃣ヴィンツェンツォ氏は、水色の瞳をじっとこちらに向けた。わたしは、ドキリとした。頭の中でまたアランドロンの映画の場面が何か所も再生された。
「シニョリータ高木は、とてもイタリア好きですね。どういうところが好きなのですか?」
わたしは、この質問が好きだ。やっと今までよりは数段流暢にこたえられる。
「えぇ、とても。大好きです。素晴らしい文化と自然の国だと思っています。
ローマの知と人々が生きてきた生活の歩みが染込んだ土地から伝わる独特の温かさが好きです。天才ダンテやレオナルドダヴィンチの名前を知らない人はいないと思います。彼らこの土地が産んだ人類にとっての偉人。
ラファエロ、ミケランジェロ、天文学の父近代、科学の父と言われるガリレオガリレイのピザの斜塔の逸話は世界中に知れ渡っています。
コモに来る前に知ったのですが、ボルタ電池のアレッサンドロ・ボルタは、コモ出身なのですね。」
「嬉しいですね。イタリアに産まれたことを誇らしく思わせてくれます。イタリアにも影はあるのですよ。
それはどの国でも同じでしょう。しかし、同じ土地にずっと住まうと人は、光にも闇にも鈍感になってしまうものです。
冷たい水も氷水とならない限り、入ってしまえば慣れてしまうものです。シニョリータ高木は、日本というイタリアの外側からの訪問ですから、光がことさらよく見えるのでしょう。」
わたしは、ヴィンツェンツォ氏の言葉に納得していた。日本でイタリア語の個人レッスンをしていた時のことを思い出したのだ。担当してくれたイタリア人の先生Uは、日本が大好きだった。そして、風光明媚な京都に感動して興奮がひと月止まらなかったこと、日本の治安がいいところ、基本的に人が信頼できるところ、道路がきれいなところ、落としたスマホが帰ってくるところなどに酷く感動した話をしてくれたことを思い出した。それを聞いてわたしは強い同調圧力のことやだます人だっていること、自殺率が高いことなど日本の負の側面のことを話した。しかし、Uは、それは知ってる、そんなことは日本がすばらしいことの否定になりはしない。ありあまるほど素晴らしい、そう答えていた。なんで、素晴らしい面を見ないのかとも語っていた。Uさんは日本に7年いるが帰る気はないと宣言しているし、依然として日本にいることそのものに喜びを見いだしていた。ウスマさんが、母国のことを批判的にみているのは知っているがイタリアを愛しているのも知っている。
「そうかもしれません。イタリアにも国が抱える様々な問題があるかとおもいますが、旅としてイタリアを訪れるわたしの目には、コモの美しさやトスカーナ地方の穏やかな自然美、それからイタリアの人たちの陽気さばかりが目にうつります。
コロナ禍以前は通りでハグをする人たちを見るだけで、幸せな気持ちがしたものです。
イタリアの人たちが道端でケンカをする様子からもわたしはイタリアを見て好意的にうけとっていました。わたしは、イタリアの良い所をとてもよいものと受け取り、
一見ネガティブなことをより問題の少ない軽いものとして見ているのかもしれません。」
わたしが言い終わるか終わらないうちに、ヴィンツェンツォ氏はまるでコンサートのスタンディングオベーションをするような勢いで立ち上がった。それから、わたしに両手を差しだし握手を求めてきた。握手というよりも手を握りたいという衝動にこたえてほしいとの熱気があった。わたしは面食らっていた表情だったと思う。それでも少し手をヴィンツェンツォ氏の方にのばした。ヴィンツェンツォ氏は、わたしの手を両手で握った。
「ブラボーですよ、シニョリータ高木。ブラボーです。」
わたしが赤面したのは、言うまでもない。コモの街に咲く赤いブーゲンビリアのように可憐であればいいが、わたしはきっとまるで顔まで塗り間違えた達磨のようであったと思う。
「シニョリータ高木、あなたに、是非この地に長く滞在してほしい。できるならば、わたしのそばにいてほしいのです。」
ヴィンツェンツォ氏に、男性の狩りの本能が目覚めていくような情熱が現れてきた。今にも指輪が出てくるような勢いだ。わたしは、突然の言葉に様なく立往生、といったところか。
「シニョリータ高木、本当は結婚を申し込みたいぐらいのですが、窪田氏がそれはあなたが驚くからやめた方がいいと忠告してくれたのです。
まずは、丁寧にお付き合いからはじめるべきだと。
あなたはとてもイタリア好きですね。
わたしは、G氏を含め、日本の知り合いにイタリア好きの女性はいないかと探すことを数年前に依頼したのです。紹介してくれた女性についてはできる限りで個人的なことを調べました。わたくしがもっぱら求めたのは、イタリア好きと分かるデータでした。
窪田氏が3年前に紹介してくれたのが、シニョリータ高木、あなたです。
わたしは、シニョリータ高木のブログに辿り着きました。そのブログから、イタリアへの思いが手に取るように伝わってきました。わたしは、高揚しました。まさに、あなただと思ったのです。これは直感というものだと思います。
わたしが探している女性だと、直感したのです。そのときの喜びといったら、なん年もなん十年も発掘に費やした人がついに化石を見つけたよりも嬉しかったのではないかと思うぐらいです。」
ヴィンツェンツォ氏の目が柔らかくなった。
「シニョリータ高木は、フィレンツェが特にすきですね。トスカーナ地方がお気に入りのようですね。」
何かこたえなければならない、わたしはほぼ自動的にこたえた。フィレンツェのことなら特に言葉を組み立てる必要も思考の制御もなしに言葉が口からこぼれる。
「わたしは、トスカーナ地方が好きなのです。イタリアには海の豊穣の絶景もいたるところにありますが、トスカーナのあのなだらかな丘陵が好きなのです。それと、フィレンツェ。わたしはこの言葉を発するだけで、恍惚をおぼえるぐらい大好きです。ルネサンスの響きとそのときに生きた人たちが再発見した古代の知と感性から生まれた創造の数々を同時に想起するからだと思います。」
「シニョリータ高木、ますますあなたが好きになりますよ。」
ヴィンツェンツォ氏は、好き、と言った。わたしのことを好き、と言った。
人から好きと言われることって、こんなに喜びを生むことなのだろうか。
「フィレンツェと言えば、わたしが日本人女性を探すきっかけとなったお話をお伝えしましょう。個人的な話なのですが、きっとわたしが本気であることが伝わるでしょう。
わたしは、幼い頃から日本の女性を好意的にみているのです。
なぜかというと、母が街全体からまるで暗雲をまき散らした事件の容疑者のような扱いを受けたとき、ただ一人、母との付き合いを変えることがなかった人がいたのですよ。その女性は、鈴木という日本人でフィレンツェに留学に来ていたのです。イタリア語を歴史あるフィレンツェで学びたいと滞在していたようですが、趣味のスケッチのために訪れたコモ地方に魅せられて週末によく写生をしにきたそうです。そこで、コモ湖の写生会のメンバーであった母と仲良くなったのです。」
わたしは、最上階に来るときに見た鉛筆画を思い出した。
「みな掌を返すように、態度を変え、火山の噴火の前兆を聞いたかのように、母から身を隠したものですが、彼女だけはお世話になったからと、態度も変えず噂に耳を貸す風もなく、母と接してくれ、病気の母の見舞いに来てくれたのです。
一人の人が日本の強い印象をわたしに刻んだのです。もしも、あの女性が中国の女性でしたら中国の女性に、インドの女性でしたらインドの女性に、同じような印象を抱いたのかもしれません。
成長し視野がより広くなったとき、イタリアにも様々な人がいるように、
日本にも様々な人がいる、そう頭では分かってはいましたが、
幼い頃に深く刻まれた印象をかわることはありませんでした。変える必要もない、そう思いました。
おもてなしを学びに、3度程訪れただけですが、日本は出会う人、一人一人がとても親切でしたから。」
それは、あなたがそうやって日本に好意的だから、とわたしは思ったが、確かに知り合った海外出身の日本に滞在中の人たちはそういう感想を言うことがとても多い。日本に訪れているという時点で、日本に好意的な前提があるわけで、結局は好意の目には日本のよいところがよく映り、また日本から好意が帰ってくるというシンプルな法則な
のだろう。
わたしの体験だが、イタリアでは日本ではぶっきらぼうと思えるような対応はよくあった。日本はコンビニの店員までとても丁寧な対応が基本的に浸透している。道を聞けば、親切に答えてくれる。
「シニョリータ高木、ここに住むことを考えてはみませんか。」
心臓が高鳴る。わたしは、まさか予想だにしていないシンデレラガールズになりかけているのだろうか。
他の女の子ならば、余る勢いで二つ返事なのかもしれない。しかし、わたしはそんな夢見るガールではなかった。お金による得られる自由は重々に承知しているし、旅するだけの自由もほしいとは思ってきたが、富裕層に対する羨望というものも持ち合わせていないわたしはひねくれものに近いといえた。富裕層、庶民、その垣根をいつも心の中で取り壊しているような人間で、イタリアの自然と文化を愛してきた、それだけだ。
「コモの地の魅力を見出す、それはシニョリータ高木、あたなだからできることです。
あなたのブログ記事からわたしが読み取ったことは、あなたの目は、この地のよいところを発掘することにとても長けていいること、この地の自然をめでる目と心に恵まれていること。
シニョリータ高木、この地で暮らしたとしてもその目と心は曇ることがないでしょう。わたしは、あなたのことをあなたが思う以上に慕っているのですよ。自然を愛するあなたの心に惚れているのです。日本という世界に誇る秀逸な文化の地に育ちながら、異文化であるイタリアの文化を尊敬し尊重するあなたに敬意をおぼえるのです。
わたしは、あなたがこの地で朝と昼と夕を過ごすことに心の深い部分から満足することは、明日の天気予報よりも確実に予測できるのです。
ここで、わたしの使命を共有しませんか?これは、わたしのあなたへの本気をあらわしたものです。」
ヴィンツェンツォ氏は、わたしにコモ湖そしてヴィンツェンツォ氏の瞳の色をした石が付いた指輪を差し出した。
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