この記事は、大切な人の力になろうとしたのに反発されて悲しい思いをした人、憤りを感じた人、その理由を相手の理解不足だけで片づけたくないすべての人のために書きました。
第1部:無理解と介入
みなさんおはようございます。
Potential Draggerと申します。
今回はともすると、やってしまいがちな「誰かを助けたい! 」について書いていこう。僕もね、やってしまった。
そう、やらかしたんですよ。そりゃあもう大変なミスです。簡単にいえば、人の神経を逆なでしてしまった。なんでそんなことになってしまったんだろう、ということをここ数週間ずっと考えていたわけです。それで備忘録がてらブログにまとめてみようと思い立ったわけです。
エネルギーワーカーとして一流でも、人のなかに生きるとこういうことは起き得ます。そういう風に思いながら読んでもらえればうれしいよ。僕もひとりの人間だ(し、人として生きることはやっぱり不慣れだなぁ、としみじみ痛感している次第です)。
先に、今回の話のきっかけを、相手のことを伏せて少しだけ説明しておこう。
とあるやりとりについて、僕のところへいくつかDMで意見が届いた。僕にはその意見が、こちらの事情や何を考えてきたかを十分に確かめないまま、こうしたほうがいいと助言するものに感じられた。
それで僕は、反発を示すために「見くびるな」という言い方をした。
ただ、慎重に考えたほうがいい部分もある。相手が実際に僕を見くびっていたのか、それとも僕がその言葉をそう受け取ったのか。相手なりに考えて、穏便に済ませる方法を伝えようとしていた可能性もあるなと思いながらも、意志表示をしなくてはならなかった。
そして、僕がその助言をどう評価するかとは別に、僕自身がどんな言葉を返したかも振り返る必要がある。事情を分かってほしいと思ったとき、僕は相手の事情をどこまで考えていただろう。
今回考えてみたいのは、助言を受けたときに感じた違和感と、それに応じた自分の振る舞い、その両方だ。
誰かを助けようとするときにも、誰かの助けを断るときにも、僕らは相手のことの全部を知ってから始めることはできない。それでも、何かを言い、何かを選んでいる。
それじゃあ始めましょう。
0. 人が人に関わるということ
……特に親になったりすると(僕はまだ子を授かってないけれど)、愛おしい我が子のためなら何でもしてあげたい、となる人は多いんじゃないかな。大体赤ちゃん可愛いと思う人はそうなると思うよ。生まれる前は全く子どもに興味がなかった人でも、目に入れても痛くないとか言い出したりするからね。なかにはそうじゃない人もいるけれど、概ねそういう人が多い気がするね。世の中なんでも例外はある。
ところで、人も動物もいつか成長して、親離れをしていく。
じゃあどのタイミングで子は親離れをしていくんだろう? という話はまた今度にしましょう。今回話したいのは子離れに近い話なんだ。
人って、どうしても目の前で困ってる人がいたら助けてあげたくなるものだし、ひもじい思いをしている人がいれば何か食べさせてあげたい、喉乾きにあえいでいる人がいれば水分を与えたくなるようなところがある。(全員がそうだとは言わないし足元をみたりみられたりすることもあるかもしれないけれど、だとしても)たいていの人は、何かしらの感情移入や配慮や倫理観からそうなるんじゃないかな。
特にこういう記事を読んでくれる奇特な方はね。
もちろん緊急を要するぐらい、相手の体調がかんばしくないのなら急いで助けなければならない。命が失われれば戻ってこられないから。
でも、たとえばそうじゃないとき。あるいはそうは見えないとき。
たとえば我が子が将来お金に困りそうだといって先回りして蓄財をし、助力をすることは確かにその子には余裕を与える。でも、与えられた瞬間から、たとえばハングリー精神、その子が本当は発揮できたかもしれない創意工夫の芽を摘んでしまっているかもしれない。(あるいはお金があろうがなかろうが関係なく、その子の芽は出るかもしれない。これはわからないね)
そもそも"お金に困りそうな人のために、代わりにお金を稼いであげよう"という発想はどこから出てくるんだろう?
なぜ困っている人の代わりに苦役を買って出たり、身銭を切ろうと思うのだろう。
今回はそういう話ができたらと思っている。
1.「よくわからない」で終わらせる知性と、「よくわからないけど」で進む勇気
人は、どれほど他者を観察できたとしても、五感などを通し、この肉体を通じて世界そのものを再構成するよりほかにない。そうである以上は、背景にある幼少期から今までの経験とか、いま抱えている事情、(つまり体調だったり心理状況だったりね。他の人との間にあった出来事とか。あるいはそのときの意図、何をどうしたいかなど。)相手についての、ありとあらゆるすべてのことを把握してしまうということは、極めて難しいし、原理的に言ってできようがはずがない。できそうにもないということはここで詳しく論述せずとも分かってくれると思う。
つまりどうあがいても、ある程度のところで切り上げて輪郭を引くことになる。
自分に分かる範囲のその人を、自らのなかにうまく像として結ばせて、物語を作ることで、なんとか現実という得体のしれないものに輪郭を与えている。
だから、そういう事実からすぐに
①観察をして五感を通して捉えた事実。
②そこから自分のなかで得た解釈、あるいは行った推測。
③解釈や推測をもとにして出した評価、価値判断。
この3つを、ほんとうはハッキリと区別しておかなければならないことがわかる。
情報が足りていないと判断した場合には、①で止めて②に進まないこともできる。観察から情報が足りていると思って、あるいは不足に気付かずいきなり自身の経験や知識、そのフレームに照らして道筋をつけることもある。その場合でも②までで止めて、良いとか悪いとかは言わないこともできる。
我々はともすると、推測した"事実"をもとに、その推測に基づいて周囲の人(あるいは自分自身さえ)矯正しようとすることがある。そこにはかならず評価や価値基準がついてまわる。
それだけじゃない。情報が不足しているのに、不足していることに気づかないまま、あるいは事実は別で存在するのに、みたり聞いたりしてきたものを捻じ曲げて、目の前の出来事や人物に対して評価を下したりする。
あれは良いとか、これは悪いといったようなことだ。好き嫌いもひょっとしたら入るかな。
僕を例に挙げよう。YouTubeでは人狼プレイヤー、GMとして活動しているから、どうしても他者との折衝を行わなくてはならない場面が多々ある。
①実際に一度も該当者からDMでGM依頼を受けたことがない。該当者ではなく、別の方を経由しての依頼であった。本人はXで連絡をしたと言っていたらしいが、一度もXで依頼連絡は来ていない(ただしdiscordでGMを引き受けてもらったことに対する感謝の意は連絡としてもらったことがある)。また稀に個人的にこちらから連絡を入れたこと、その後彼主催のdiscord人狼自体の解体がGMとごく一部のメンバーにのみ通達されたこと。それから数ヶ月が経って、前後の話題から僕に対するものだと限定しうる誹謗中傷の生配信が行われたこと。それに対して第三者が声明を出そうとしていたので介入したこと。介入後も該当者が誹謗を続けていること。やむをえず反論したこと。ここに第四者・第五者が口を挟んできたこと。
②そもそもXで連絡をして反応がなかったのであれば他の連絡手段はいくらでもあるわけだから、そちらを利用して連絡をすればよい。実際にGM依頼以外では何度もやりとりをしているわけだから、仮に万が一Xでの連絡を僕が見落としていたとしても(普段僕に依頼を出してくださっている方はそんなことが滅多に起こりうることではないと知ってくださっていると思うが)、連絡をつける方法はあったはずで、それをこちらの責にするのはお門違いである。第一、僕は直接GM依頼をしてこなかったことを一切咎めていない。怠惰だと思うことこそあれ、特に何か指弾したこともない。僕としては知らなかったことにしてやり過ごしたかったが、特定の第四者による連絡で知らなかったことにはできなくなってしまったので公の場で反論せざるをえなかったのだが、それをみた第五者から「事情は知らないが双方気に食わない」という旨のDMをもらったので、「ではあなたが僕のことを気に食わないのと同様に、僕もあなたのことが気に食わないと示さざるを得ない」という意のことを、別の言葉でお答えした。
③はっきり言えば、下らないと思っていた。誰にどういうことを言われただのと気にしている暇があるなら、今目の前に迫っている自身の大会に対して本腰を入れよと言いたい気持ちになった。実際のところ僕にもやらなければならないことは山のようにあって、このようなやりとりに付き合わされているほど暇ではないから、自分で内容を吟味して、必要に応じて変えるべきは変え、このままでよいと思っているのなら突っ走ればいいだけだ。何を今頃になって誹謗する必要があるのかといえば、それは僕に対しての不満ではなく他の多くの人達に対する細々とした不満の蓄積から、分かりやすく叩ける僕へ拳を振りかざさざるをえなかったのだろうという気がした。それで多少であればサンドバッグ代わりになってやることもよかろうと思った。だがそういう事情も分からぬ周りからみて、自分がどうみえるかということは正直にいうと、あまり興味がなかった。該当者にとって良い人生になるのなら、それでよいように思われたからだ。
ここまで書いてみると、観察・解釈・評価を分けようとしていたはずの僕自身が、その三つを混ぜていることが分かる。「他の手段で連絡できたはずだ」は僕の判断であり、「ほかの人たちへの不満が僕に向かったのだろう」は相手の内面についての推測だ。そして、その推測をもとに「多少ならサンドバッグになってもよい」と、相手との関わり方まで決めていた。
下らないと思ったことも、責められる筋合いはないと感じたことも、当時の僕の内心として残しておきたい。ただ、その感情があったことと、相手についての僕の解釈が正しかったこととは別だ。
「相手にとってよい人生になるなら」と思っていた。その願いがあったとしても、僕の選んだ関わり方が実際に相手のためになったかどうかは、それだけでは分からない。そこまで含めて、僕自身の判断を振り返る必要がある。こうしてみると、本当の意味で3つの分類にきっちりと当てはめることが難しいと分かるだろう。人は解釈のなかに生きている。
話を戻そう。
①観察をして五感を通して捉えた事実。
②そこから自分のなかで得た解釈、あるいは行った推測。
③解釈や推測をもとにして出した評価、価値判断。
この3つは分離しておいたほうがよい。
ところで、③の好ましいとか嫌悪すべきとかいうことは、あくまでも評価する側の価値観というフィルターで濾されて取り出されたものなのであった。果たして本当に生存にとって適切なのかとか、生きていく上で良質なのかとか、同じ共同体のメンバーにとって最善なのかということは、厳密にいえば、単に知性のみによって切り分けるのなら事前にはっきりとしたことは言えない。(それで学問分野を通して、ある程度精度の高い予想を立てようということになるが、今回は日常的な他者との関わりの話をしたいのでいったん棚上げしよう。)
"よいフィルター"なら誤差程度で本当に良い指針を出せるだろう。
でも"悪いフィルター"なら的外れな結果に終わることもあるはずだ。
それで、他人を理解しきれないと気づいたときに、理解そのものを保留することが果たして知的な選択だと言えるかどうかという問題が出てくる。
不十分な情報でも、判断や介入が果たして必要なのか。つまり、決断して勇気をもって行動するのか、それともするとかしないとかいうことそれ自体を保留にするのが適切か、ということについてだ。
この疑問を友人にぶつけたところ「判断を保留したら、近い未来で何が起こるかを最初に考える」と言った。「でもこれだけじゃ不十分だから、仮に自分の判断が正しかったとしても、相手へ介入する資格はあるのかも考える」と教えてくれた。
たとえば、道端で知らない人が急に走り出したとする。……突然だよ。車道へ飛び出そうとしていたらどうだろう。何を考えているかは依然わからない。でも事故は差し迫っているから、声をかけたり、羽交い絞めにして止めることには合理性がある。相手の事情が理解できないことと、相手の行動に対処できないこととは別の問題だ。だから理解の対象を分ける、と言う。
走り出した動機については分からないから、判断を保留する。だが車道につっこめば車にひかれそうだ。これは単に見たままの状況から判断できる。だから理解できていない部分が存在していたとしても、見たまま即断することはできる。だから彼は合理性に基づいて、「被害の大きさ」「時間的猶予」「情報の確からしさ」「介入の負担と不可逆性」のいずれか、もしくはこの中のいくつかの複合に基づいてとっさの判断をすればいい、と言った。つまり未来予測に基づいて、利と損とを天秤にのせて考えるのだね。
同時に彼はこうも言った。
「思考実験として、相手の事情を100%完全に理解しているものとしよう。相手の考え方そのものに誤りがあることも、論理的・客観的に証明ができたものとする。それでも、相手を変えようとする行動は、正当化されないと思うんだ。たとえば、相手が趣味として取り組んでいることについて、僕がより効率的な方法を知っていたとしよう。相手がその方法を全く知らないし、気づいてもいないことも確認できた。でも相手が自分なりの方法で楽しんでいて、助言を望んでいないのなら、僕がそれを教えようとする必要はかならずしもないよね」
つまり、自分の判断が正しいのか(認識の問題)と、判断に基づいてなにかをする必要があるのか(実践の問題)と、それを自ら行ってよいのか(倫理の問題)とはそれぞれ独立しているということだ。しかも、倫理の問題の答えは、認識と実践とから自動的には導かれない。
「ここを混同すると、『正しいことを教えているにもかかわらず、なぜ受け入れないのか』という態度にも陥りやすくなる」と彼は言う。
「これは自身でも重要な発見をしたと思うのだが、判断を保留しながら行動することも当然できるわけだ。たとえば友達が突然、普段とは違う様子で落ち込んでいたとする。原因はわからない。ここで『きっと何か重大な悩みを抱えているんだ! 』と決めつけることもできる。でも『何かあった? 話したかったら聞くよ』と伝えることもできる。あるいは反対に『いま君はこういう問題を抱えているから、こうすべきだよ』と決めつけることもできるけれど。もちろん声をかけること自体が負担になってしまうことだってある。だから相手が拒否したら引き下がることや、そもそも声をかけてよい関係性かどうかも考える必要がある。ただ考えられるのは、判断することと介入することとの間には、数多くの選択肢があるということなんだ」
何もしない、相手を教え導く。この二択ではないということだ。
情報を集める、質問する、援助を申し出る、危険を知らせる、距離を置く。やりかたはひとつではない。

「ところで、『ひっかかって気になるなら、それはもう君の問題』という表現、いや主張かな。かなり興味深い。ここには認識の問題から倫理の問題への転換がある。誰かの言動が気になる、その人について理解したい。あるいは理解すること自体には興味がないのかもしれないが感情が動く、ここまでは本人の知的関心の問題だろう。でもそこから『だから相手が説明すべきだ』『だから相手は自分の助言を受けるべきだ』と進むには、新たな正当化が必要になる。知りたいという欲求も、何かを説明しきりたいという願望も、知る機会を相手に提供させる義務を生じせしむるものではない。他方、本人に尋ねてはならないとまで一般化しては、行き過ぎだろう。丁寧に質問することが歓迎される関係もあれば、誤解の解消で双方に利が生まれる場合もある」
「他人を理解したい、自分のもともと持っている枠組みに当てはめたいという欲求は自由だ。でも欲求を満たすために他人を動かすことが、当然のこととして許されるということにはならない。自分が見たくないものを見ないで済むように相手に協力を求めることはできるが、誰も相手に自分がこうすべきだと思ったことを人間関係のうえで強制的に飲ませることはできない。そういったことを思うと、判断できる部分だけを考え抜いて、それを超える部分には結論を持ち込まないことが知的誠実さのひとつの形じゃないかな」
「ある一般論があったとして、それが当事者にとって役に立つかどうかを判断する材料を、提示する本人が持っていないことだってある。すでに話し合いが成立しないと判断して切り上げた人に『話し合えばよい』と言っても解決策にはならないし、ブロックした後も対処すべき問題が残っているなら『ブロックして無視すればいい』と言ったところで、なんら役に立たないかもしれないからね。ひょっとしたら公の場で反論する必要があるのかもしれない。そういう可能性を確認しないまま解決策だけを提案すると、かえって相手の負担になる」
「何より解決策を示したつもりの人にとっては、当人の行動のきっかけとなったことが"深刻に受け止めるほどのことではない"のかもしれない。それは本人の価値観としては構わないさ。けれども、他人にとっても同じかどうかは分からない。……(『所詮ネット』という表現について)ネット上の人間関係だって現実の一部だからね。『所詮』という言葉は、本人が自分の問題を軽く扱うために用いるならともかく、他人の問題に対して使うなら、相手にとっての問題の重大さを、送り主の価値判断、その基準で勝手に割り引いているように響く。もっとも単に『そんなことで消耗しなくてもいいよ』と気遣っているつもりだった可能性もあるけれどね。善意で解釈すればの話だよ」
「ただ、意見を伝えておいて、その伝えた相手からは詳しい返答を望まないと宣言されたわけだろう。つまり自分は言いたいことを言うけれど、それについて議論するつもりはないという非対称のコミュニケーションを強要されているわけだ。相手にとっては、つまり君だね。君にとっては、一方的に評価されたように感じられても不思議ではないと思う」
「だからこそ、事情を知っているかどうか、知らない場合に事情を知るという姿勢そのものが重要になる」
2. なぜ人は決定権を奪われると抵抗したくなるのか
「人は必ずしも、他者から提示された結論に反発しているわけではないんだ。たとえば、自分でもこの歯磨き粉を使うという選択肢が最善だと思っているとしよう。ところが『お前はこの歯磨き粉を使え。それ以外は認めない』と言われると、その歯磨き粉を使うこと自体に抵抗を覚えることがある。結果は同じなのに、自分で選ぶか他者に選ばされるか。これだけの違いで心理的な意味が変わってしまう。つまり、ここで争われているのは選択肢の正しさではなくて、誰がその選択を決定するのかなんだ」
「有力な手掛かりになる理論がふたつある。1つ目は『心理的リアクタンス理論』。人は行動の自由が脅かされると、その自由を回復しようとする動機づけが生じることがある。それで怒り、反論、命令への不服従などが反応として出てくる。反応の強さには、脅かされた自由が本人にとってどれほど重要か、どれほど大きく制限されたと感じたかが関係する。それで内容に関係なく、単に行動を制限されたことが理由で反応している可能性がある」
「もう1つは、『自己決定理論』だ。こちらでは、人間の基本的な心理欲求のひとつとして、自律性が位置付けられている。自分の意思で行動しているという感覚が、動機づけや心理的な健康に関係するという考え方だ」
「リアクタンス理論は自由が脅かされたときに、なぜ抵抗が生じるかについて考える枠組みだ。対する自己決定理論は、自律性がなぜ人間の心理的機能にとって重要かを考える枠組みになる」
「ところでそもそも、人間はなぜ自分で決めることに価値を感じるのだろうか。そもそも本当に自分で決めることに価値を感じるのだろうか」
「自分の行動と、その結果との因果関係などについて学習することは、将来の予測や環境への適応に役立つ。他人に決定を強制されてしまうと、行動と結果の関係を自ら検証する機会を損なう場合があるからね。自己決定への欲求は、こうした学習や環境制御のメリット・デメリットとも関係しているのではないだろうか。愚行権、もう少し響きを柔らかくいうなら試行錯誤する権利かな」
「自分で決めることと、正しい決断をすることもまた別だ。他人の選択が客観的に優れて立派でも、自分で決めるという経験それ自体に別の価値がありうる。失敗する自由を残すことは、本人が自分の判断を検証し、更新する機会を残すことでもあるんだ」
「では、他人の失敗を防げる場合であっても、本人の選択を尊重するべきなのだろうか」
目次
第1部:無理解と介入
0. 人が人に関わるということ
1. 「よくわからない」で終わらせる知性と、「よくわからないけど」で進む勇気
2. なぜ人は決定権を奪われると抵抗したくなるのか
3. 善意は、介入する権利を与えうるのか
4.「あなたのためよ」に隠された前提
5. 人を助けることは、その人の成長を妨げるのか
6. 理解することと、支配することとの境界線
7. 「助けは要らない」と言われたとき、いったいどうするべきなのか
8. 助ける側にも、助けられる側にも尊厳がある
9. 誰かを本当に助けたいなら、まず相手を見くびるな
第2部:エネルギーワーク
10.対話
参考文献
この記事は、大切な人の力になろうとしたのに反発されて悲しい思いをした人、憤りを感じた人、その理由を相手の理解不足だけで片づけたくないすべての人のために書きました。
第1部:無理解と介入
みなさんおはようございます。
Potential Draggerと申します。
今回はともすると、やってしまいがちな「誰かを助けたい! 」について書いていこう。僕もね、やってしまった。
そう、やらかしたんですよ。そりゃあもう大変なミスです。簡単にいえば、人の神経を逆なでしてしまった。なんでそんなことになってしまったんだろう、ということをここ数週間ずっと考えていたわけです。それで備忘録がてらブログにまとめてみようと思い立ったわけです。
エネルギーワーカーとして一流でも、人のなかに生きるとこういうことは起き得ます。そういう風に思いながら読んでもらえればうれしいよ。僕もひとりの人間だ(し、人として生きることはやっぱり不慣れだなぁ、としみじみ痛感している次第です)。
先に、今回の話のきっかけを、相手のことを伏せて少しだけ説明しておこう。
とあるやりとりについて、僕のところへいくつかDMで意見が届いた。僕にはその意見が、こちらの事情や何を考えてきたかを十分に確かめないまま、こうしたほうがいいと助言するものに感じられた。
それで僕は、反発を示すために「見くびるな」という言い方をした。
ただ、慎重に考えたほうがいい部分もある。相手が実際に僕を見くびっていたのか、それとも僕がその言葉をそう受け取ったのか。相手なりに考えて、穏便に済ませる方法を伝えようとしていた可能性もあるなと思いながらも、意志表示をしなくてはならなかった。
そして、僕がその助言をどう評価するかとは別に、僕自身がどんな言葉を返したかも振り返る必要がある。事情を分かってほしいと思ったとき、僕は相手の事情をどこまで考えていただろう。
今回考えてみたいのは、助言を受けたときに感じた違和感と、それに応じた自分の振る舞い、その両方だ。
誰かを助けようとするときにも、誰かの助けを断るときにも、僕らは相手のことの全部を知ってから始めることはできない。それでも、何かを言い、何かを選んでいる。
それじゃあ始めましょう。
0. 人が人に関わるということ
……特に親になったりすると(僕はまだ子を授かってないけれど)、愛おしい我が子のためなら何でもしてあげたい、となる人は多いんじゃないかな。大体赤ちゃん可愛いと思う人はそうなると思うよ。生まれる前は全く子どもに興味がなかった人でも、目に入れても痛くないとか言い出したりするからね。なかにはそうじゃない人もいるけれど、概ねそういう人が多い気がするね。世の中なんでも例外はある。
ところで、人も動物もいつか成長して、親離れをしていく。
じゃあどのタイミングで子は親離れをしていくんだろう? という話はまた今度にしましょう。今回話したいのは子離れに近い話なんだ。
人って、どうしても目の前で困ってる人がいたら助けてあげたくなるものだし、ひもじい思いをしている人がいれば何か食べさせてあげたい、喉乾きにあえいでいる人がいれば水分を与えたくなるようなところがある。(全員がそうだとは言わないし足元をみたりみられたりすることもあるかもしれないけれど、だとしても)たいていの人は、何かしらの感情移入や配慮や倫理観からそうなるんじゃないかな。
特にこういう記事を読んでくれる奇特な方はね。
もちろん緊急を要するぐらい、相手の体調がかんばしくないのなら急いで助けなければならない。命が失われれば戻ってこられないから。
でも、たとえばそうじゃないとき。あるいはそうは見えないとき。
たとえば我が子が将来お金に困りそうだといって先回りして蓄財をし、助力をすることは確かにその子には余裕を与える。でも、与えられた瞬間から、たとえばハングリー精神、その子が本当は発揮できたかもしれない創意工夫の芽を摘んでしまっているかもしれない。(あるいはお金があろうがなかろうが関係なく、その子の芽は出るかもしれない。これはわからないね)
そもそも"お金に困りそうな人のために、代わりにお金を稼いであげよう"という発想はどこから出てくるんだろう?
なぜ困っている人の代わりに苦役を買って出たり、身銭を切ろうと思うのだろう。
今回はそういう話ができたらと思っている。
1.「よくわからない」で終わらせる知性と、「よくわからないけど」で進む勇気
人は、どれほど他者を観察できたとしても、五感などを通し、この肉体を通じて世界そのものを再構成するよりほかにない。そうである以上は、背景にある幼少期から今までの経験とか、いま抱えている事情、(つまり体調だったり心理状況だったりね。他の人との間にあった出来事とか。あるいはそのときの意図、何をどうしたいかなど。)相手についての、ありとあらゆるすべてのことを把握してしまうということは、極めて難しいし、原理的に言ってできようがはずがない。できそうにもないということはここで詳しく論述せずとも分かってくれると思う。
つまりどうあがいても、ある程度のところで切り上げて輪郭を引くことになる。
自分に分かる範囲のその人を、自らのなかにうまく像として結ばせて、物語を作ることで、なんとか現実という得体のしれないものに輪郭を与えている。
だから、そういう事実からすぐに
①観察をして五感を通して捉えた事実。
②そこから自分のなかで得た解釈、あるいは行った推測。
③解釈や推測をもとにして出した評価、価値判断。
この3つを、ほんとうはハッキリと区別しておかなければならないことがわかる。
情報が足りていないと判断した場合には、①で止めて②に進まないこともできる。観察から情報が足りていると思って、あるいは不足に気付かずいきなり自身の経験や知識、そのフレームに照らして道筋をつけることもある。その場合でも②までで止めて、良いとか悪いとかは言わないこともできる。
我々はともすると、推測した"事実"をもとに、その推測に基づいて周囲の人(あるいは自分自身さえ)矯正しようとすることがある。そこにはかならず評価や価値基準がついてまわる。
それだけじゃない。情報が不足しているのに、不足していることに気づかないまま、あるいは事実は別で存在するのに、みたり聞いたりしてきたものを捻じ曲げて、目の前の出来事や人物に対して評価を下したりする。
あれは良いとか、これは悪いといったようなことだ。好き嫌いもひょっとしたら入るかな。
僕を例に挙げよう。YouTubeでは人狼プレイヤー、GMとして活動しているから、どうしても他者との折衝を行わなくてはならない場面が多々ある。
①実際に一度も該当者からDMでGM依頼を受けたことがない。該当者ではなく、別の方を経由しての依頼であった。本人はXで連絡をしたと言っていたらしいが、一度もXで依頼連絡は来ていない(ただしdiscordでGMを引き受けてもらったことに対する感謝の意は連絡としてもらったことがある)。また稀に個人的にこちらから連絡を入れたこと、その後彼主催のdiscord人狼自体の解体がGMとごく一部のメンバーにのみ通達されたこと。それから数ヶ月が経って、前後の話題から僕に対するものだと限定しうる誹謗中傷の生配信が行われたこと。それに対して第三者が声明を出そうとしていたので介入したこと。介入後も該当者が誹謗を続けていること。やむをえず反論したこと。ここに第四者・第五者が口を挟んできたこと。
②そもそもXで連絡をして反応がなかったのであれば他の連絡手段はいくらでもあるわけだから、そちらを利用して連絡をすればよい。実際にGM依頼以外では何度もやりとりをしているわけだから、仮に万が一Xでの連絡を僕が見落としていたとしても(普段僕に依頼を出してくださっている方はそんなことが滅多に起こりうることではないと知ってくださっていると思うが)、連絡をつける方法はあったはずで、それをこちらの責にするのはお門違いである。第一、僕は直接GM依頼をしてこなかったことを一切咎めていない。怠惰だと思うことこそあれ、特に何か指弾したこともない。僕としては知らなかったことにしてやり過ごしたかったが、特定の第四者による連絡で知らなかったことにはできなくなってしまったので公の場で反論せざるをえなかったのだが、それをみた第五者から「事情は知らないが双方気に食わない」という旨のDMをもらったので、「ではあなたが僕のことを気に食わないのと同様に、僕もあなたのことが気に食わないと示さざるを得ない」という意のことを、別の言葉でお答えした。
③はっきり言えば、下らないと思っていた。誰にどういうことを言われただのと気にしている暇があるなら、今目の前に迫っている自身の大会に対して本腰を入れよと言いたい気持ちになった。実際のところ僕にもやらなければならないことは山のようにあって、このようなやりとりに付き合わされているほど暇ではないから、自分で内容を吟味して、必要に応じて変えるべきは変え、このままでよいと思っているのなら突っ走ればいいだけだ。何を今頃になって誹謗する必要があるのかといえば、それは僕に対しての不満ではなく他の多くの人達に対する細々とした不満の蓄積から、分かりやすく叩ける僕へ拳を振りかざさざるをえなかったのだろうという気がした。それで多少であればサンドバッグ代わりになってやることもよかろうと思った。だがそういう事情も分からぬ周りからみて、自分がどうみえるかということは正直にいうと、あまり興味がなかった。該当者にとって良い人生になるのなら、それでよいように思われたからだ。
ここまで書いてみると、観察・解釈・評価を分けようとしていたはずの僕自身が、その三つを混ぜていることが分かる。「他の手段で連絡できたはずだ」は僕の判断であり、「ほかの人たちへの不満が僕に向かったのだろう」は相手の内面についての推測だ。そして、その推測をもとに「多少ならサンドバッグになってもよい」と、相手との関わり方まで決めていた。
下らないと思ったことも、責められる筋合いはないと感じたことも、当時の僕の内心として残しておきたい。ただ、その感情があったことと、相手についての僕の解釈が正しかったこととは別だ。
「相手にとってよい人生になるなら」と思っていた。その願いがあったとしても、僕の選んだ関わり方が実際に相手のためになったかどうかは、それだけでは分からない。そこまで含めて、僕自身の判断を振り返る必要がある。こうしてみると、本当の意味で3つの分類にきっちりと当てはめることが難しいと分かるだろう。人は解釈のなかに生きている。
話を戻そう。
①観察をして五感を通して捉えた事実。
②そこから自分のなかで得た解釈、あるいは行った推測。
③解釈や推測をもとにして出した評価、価値判断。
この3つは分離しておいたほうがよい。
ところで、③の好ましいとか嫌悪すべきとかいうことは、あくまでも評価する側の価値観というフィルターで濾されて取り出されたものなのであった。果たして本当に生存にとって適切なのかとか、生きていく上で良質なのかとか、同じ共同体のメンバーにとって最善なのかということは、厳密にいえば、単に知性のみによって切り分けるのなら事前にはっきりとしたことは言えない。(それで学問分野を通して、ある程度精度の高い予想を立てようということになるが、今回は日常的な他者との関わりの話をしたいのでいったん棚上げしよう。)
"よいフィルター"なら誤差程度で本当に良い指針を出せるだろう。
でも"悪いフィルター"なら的外れな結果に終わることもあるはずだ。
それで、他人を理解しきれないと気づいたときに、理解そのものを保留することが果たして知的な選択だと言えるかどうかという問題が出てくる。
不十分な情報でも、判断や介入が果たして必要なのか。つまり、決断して勇気をもって行動するのか、それともするとかしないとかいうことそれ自体を保留にするのが適切か、ということについてだ。
この疑問を友人にぶつけたところ「判断を保留したら、近い未来で何が起こるかを最初に考える」と言った。「でもこれだけじゃ不十分だから、仮に自分の判断が正しかったとしても、相手へ介入する資格はあるのかも考える」と教えてくれた。
たとえば、道端で知らない人が急に走り出したとする。……突然だよ。車道へ飛び出そうとしていたらどうだろう。何を考えているかは依然わからない。でも事故は差し迫っているから、声をかけたり、羽交い絞めにして止めることには合理性がある。相手の事情が理解できないことと、相手の行動に対処できないこととは別の問題だ。だから理解の対象を分ける、と言う。
走り出した動機については分からないから、判断を保留する。だが車道につっこめば車にひかれそうだ。これは単に見たままの状況から判断できる。だから理解できていない部分が存在していたとしても、見たまま即断することはできる。だから彼は合理性に基づいて、「被害の大きさ」「時間的猶予」「情報の確からしさ」「介入の負担と不可逆性」のいずれか、もしくはこの中のいくつかの複合に基づいてとっさの判断をすればいい、と言った。つまり未来予測に基づいて、利と損とを天秤にのせて考えるのだね。
同時に彼はこうも言った。
「思考実験として、相手の事情を100%完全に理解しているものとしよう。相手の考え方そのものに誤りがあることも、論理的・客観的に証明ができたものとする。それでも、相手を変えようとする行動は、正当化されないと思うんだ。たとえば、相手が趣味として取り組んでいることについて、僕がより効率的な方法を知っていたとしよう。相手がその方法を全く知らないし、気づいてもいないことも確認できた。でも相手が自分なりの方法で楽しんでいて、助言を望んでいないのなら、僕がそれを教えようとする必要はかならずしもないよね」
つまり、自分の判断が正しいのか(認識の問題)と、判断に基づいてなにかをする必要があるのか(実践の問題)と、それを自ら行ってよいのか(倫理の問題)とはそれぞれ独立しているということだ。しかも、倫理の問題の答えは、認識と実践とから自動的には導かれない。
「ここを混同すると、『正しいことを教えているにもかかわらず、なぜ受け入れないのか』という態度にも陥りやすくなる」と彼は言う。
「これは自身でも重要な発見をしたと思うのだが、判断を保留しながら行動することも当然できるわけだ。たとえば友達が突然、普段とは違う様子で落ち込んでいたとする。原因はわからない。ここで『きっと何か重大な悩みを抱えているんだ! 』と決めつけることもできる。でも『何かあった? 話したかったら聞くよ』と伝えることもできる。あるいは反対に『いま君はこういう問題を抱えているから、こうすべきだよ』と決めつけることもできるけれど。もちろん声をかけること自体が負担になってしまうことだってある。だから相手が拒否したら引き下がることや、そもそも声をかけてよい関係性かどうかも考える必要がある。ただ考えられるのは、判断することと介入することとの間には、数多くの選択肢があるということなんだ」
何もしない、相手を教え導く。この二択ではないということだ。
情報を集める、質問する、援助を申し出る、危険を知らせる、距離を置く。やりかたはひとつではない。
「ところで、『ひっかかって気になるなら、それはもう君の問題』という表現、いや主張かな。かなり興味深い。ここには認識の問題から倫理の問題への転換がある。誰かの言動が気になる、その人について理解したい。あるいは理解すること自体には興味がないのかもしれないが感情が動く、ここまでは本人の知的関心の問題だろう。でもそこから『だから相手が説明すべきだ』『だから相手は自分の助言を受けるべきだ』と進むには、新たな正当化が必要になる。知りたいという欲求も、何かを説明しきりたいという願望も、知る機会を相手に提供させる義務を生じせしむるものではない。他方、本人に尋ねてはならないとまで一般化しては、行き過ぎだろう。丁寧に質問することが歓迎される関係もあれば、誤解の解消で双方に利が生まれる場合もある」
「他人を理解したい、自分のもともと持っている枠組みに当てはめたいという欲求は自由だ。でも欲求を満たすために他人を動かすことが、当然のこととして許されるということにはならない。自分が見たくないものを見ないで済むように相手に協力を求めることはできるが、誰も相手に自分がこうすべきだと思ったことを人間関係のうえで強制的に飲ませることはできない。そういったことを思うと、判断できる部分だけを考え抜いて、それを超える部分には結論を持ち込まないことが知的誠実さのひとつの形じゃないかな」
「ある一般論があったとして、それが当事者にとって役に立つかどうかを判断する材料を、提示する本人が持っていないことだってある。すでに話し合いが成立しないと判断して切り上げた人に『話し合えばよい』と言っても解決策にはならないし、ブロックした後も対処すべき問題が残っているなら『ブロックして無視すればいい』と言ったところで、なんら役に立たないかもしれないからね。ひょっとしたら公の場で反論する必要があるのかもしれない。そういう可能性を確認しないまま解決策だけを提案すると、かえって相手の負担になる」
「何より解決策を示したつもりの人にとっては、当人の行動のきっかけとなったことが"深刻に受け止めるほどのことではない"のかもしれない。それは本人の価値観としては構わないさ。けれども、他人にとっても同じかどうかは分からない。……(『所詮ネット』という表現について)ネット上の人間関係だって現実の一部だからね。『所詮』という言葉は、本人が自分の問題を軽く扱うために用いるならともかく、他人の問題に対して使うなら、相手にとっての問題の重大さを、送り主の価値判断、その基準で勝手に割り引いているように響く。もっとも単に『そんなことで消耗しなくてもいいよ』と気遣っているつもりだった可能性もあるけれどね。善意で解釈すればの話だよ」
「ただ、意見を伝えておいて、その伝えた相手からは詳しい返答を望まないと宣言されたわけだろう。つまり自分は言いたいことを言うけれど、それについて議論するつもりはないという非対称のコミュニケーションを強要されているわけだ。相手にとっては、つまり君だね。君にとっては、一方的に評価されたように感じられても不思議ではないと思う」
「だからこそ、事情を知っているかどうか、知らない場合に事情を知るという姿勢そのものが重要になる」
2. なぜ人は決定権を奪われると抵抗したくなるのか
「人は必ずしも、他者から提示された結論に反発しているわけではないんだ。たとえば、自分でもこの歯磨き粉を使うという選択肢が最善だと思っているとしよう。ところが『お前はこの歯磨き粉を使え。それ以外は認めない』と言われると、その歯磨き粉を使うこと自体に抵抗を覚えることがある。結果は同じなのに、自分で選ぶか他者に選ばされるか。これだけの違いで心理的な意味が変わってしまう。つまり、ここで争われているのは選択肢の正しさではなくて、誰がその選択を決定するのかなんだ」
「有力な手掛かりになる理論がふたつある。1つ目は『心理的リアクタンス理論』。人は行動の自由が脅かされると、その自由を回復しようとする動機づけが生じることがある。それで怒り、反論、命令への不服従などが反応として出てくる。反応の強さには、脅かされた自由が本人にとってどれほど重要か、どれほど大きく制限されたと感じたかが関係する。それで内容に関係なく、単に行動を制限されたことが理由で反応している可能性がある」
「もう1つは、『自己決定理論』だ。こちらでは、人間の基本的な心理欲求のひとつとして、自律性が位置付けられている。自分の意思で行動しているという感覚が、動機づけや心理的な健康に関係するという考え方だ」
「リアクタンス理論は自由が脅かされたときに、なぜ抵抗が生じるかについて考える枠組みだ。対する自己決定理論は、自律性がなぜ人間の心理的機能にとって重要かを考える枠組みになる」
「ところでそもそも、人間はなぜ自分で決めることに価値を感じるのだろうか。そもそも本当に自分で決めることに価値を感じるのだろうか」
「自分の行動と、その結果との因果関係などについて学習することは、将来の予測や環境への適応に役立つ。他人に決定を強制されてしまうと、行動と結果の関係を自ら検証する機会を損なう場合があるからね。自己決定への欲求は、こうした学習や環境制御のメリット・デメリットとも関係しているのではないだろうか。愚行権、もう少し響きを柔らかくいうなら試行錯誤する権利かな」
「自分で決めることと、正しい決断をすることもまた別だ。他人の選択が客観的に優れて立派でも、自分で決めるという経験それ自体に別の価値がありうる。失敗する自由を残すことは、本人が自分の判断を検証し、更新する機会を残すことでもあるんだ」
「では、他人の失敗を防げる場合であっても、本人の選択を尊重するべきなのだろうか」
目次
第1部:無理解と介入
0. 人が人に関わるということ
1. 「よくわからない」で終わらせる知性と、「よくわからないけど」で進む勇気
2. なぜ人は決定権を奪われると抵抗したくなるのか
3. 善意は、介入する権利を与えうるのか
4.「あなたのためよ」に隠された前提
5. 人を助けることは、その人の成長を妨げるのか
6. 理解することと、支配することとの境界線
7. 「助けは要らない」と言われたとき、いったいどうするべきなのか
8. 助ける側にも、助けられる側にも尊厳がある
9. 誰かを本当に助けたいなら、まず相手を見くびるな
第2部:エネルギーワーク
10.対話
参考文献