序_無名の天秤
誰が重さを測ったのか
誰が傾きを許したのか
汝が手にした光が、何時より罪悪と呼ばれたのか
虚無の刃は、自己という名の天秤に降ろされる
神の声を求めるな
その沈黙が既に、応答である
我らは、生まれたその日に堕天していた
天上の斜塔
鏡を仰げ、己を高く掲げよ
それが始まりだ
語り部は天に指を差し、それが自分の額であると信じた
石を積み、石を叩き、血を讃えた
やがてその塔は、天上の書をも穿ち、 神の綴りし余白までも侵す
神は沈黙すら与えない
声を奪われた空の下、我々は初めて見た足元に、終わりがなかった
塔は、もはや彼の背だった
傲慢は、彼の名前を忘れた
緑の瞳、深淵の声
それは緑と呼ばれたもの
言葉もなく、輪郭もなく、他者の輪郭をなぞる指のように
静かに、濡れた視線が落ちた
彼女の笑顔を飲み込んだ花瓶が
何度、水を替えても腐臭を放つのは
一体、誰のせいなのだろうか?
鏡に映る彼女の頬に、自分の指紋を探していた
ガラスは語らず、ただ冷たかった
それは私自身の体温だったのだろうか
窓辺に吊るされた風鈴が鳴らない日
私は気づく、音を奪ったのは、鳴らす風ではなく、
耳そのものだったのだと
あの声を、あの称賛を、この胸にしまい込んで
何度も咀嚼し、吐き戻し、また飲み込んだ
胃の底で根を張る
私という名の土壌に芽吹いたものは
誰の名前を呼ぶのだろう?
見上げた夜空、星は沈黙していた
ああ、羨むほどの静けさよ
私は、誰の声になりたかったのだろうか?
沈黙する火
咆哮はなかった
叫びは生まれなかった
心臓の奥底で、震えを孕んだ地層が、ずっと眠っていた
刃は抜かれなかった
手も血に濡れてはいない
誰も気づかぬまま
一つずつ、皿が欠けていく食卓に、ずっと座っていた
怒りは、音ではなかった
無音の火、舌を焼かぬ炎、皮膚を焦がさぬ熱
見えない火種が、会話の隙間に潜んでいる
あなたの言葉の一文字ずつが、その薪となることを気づかずに
壁に掛けられた時計は、針が止まったまま、進んでいた
時間ではなく、瞬間そのものが裂けていた
私の中の私が、静かに私を睨んでいる
まだか、なぜだ、いつまでだ……と
ある夜、何もない部屋の空気が、ひとりでに破裂した
それが始まりだったのか、とっくに終わっていたのか
それさえもわからない
ただひとつ確かなのは、怒りは外に向けられる前に
すでに私という器を灰にしていた
白の遺稿
動くことは罪ではなかった
動かないことも罰ではなかった
思考が、床に染みる音を誰も聞いていなかっただけだ
窓は開いていた 風は来なかった
もしかしたら、私が風を感じることを忘れていたのかもしれない
机の上には、宛先のない封筒が、何百通も重ねられていた
中は空白 言葉の代わりに、溜息が綴られていた
時間は、液体だった
壁を這い、天井を濡らし、やがて私の眼球の裏側で、静かに凝固していた
まばたきを忘れた瞳に映るのは、昨日の影を引きずる今日、だけ
枕は私を眠らせてくれない
ただ頭の重みを受け取り、ゆっくりと沈んでいくだけ
深く、深く、思考の底に落ちていくと
自分の輪郭が滲んでいく
もう一度、起き上がる理由を探したけれど、その探すという行為自体が
あまりにも 重すぎた
やがて私は待つという行為そのものを、生きる代わりに始めていた
何を待っているのかも知らずただ、世界が私に追いつく日を
それが存在と呼ばれるものの
最も深い裏切りであると知りながら
器の骨
空であることを恥じる必要はなかった
空であることを許せなかった
私は、器だった
満たされるために生まれた
溢れることなど知らなかった
砂をすくう手のひらには、かつて地図が刻まれていた
欲しいものの位置、手に入れる方法
それらすべては、ひとつも私自身の言葉ではなかった
舌が喉に沈んでいく
言葉の代わりに、光を食べ音を飲み込んだ
それでも飢えと渇きは増していった
腹ではなく、心でもなく、もっと奥底で、
足りなかったという記憶そのものが、牙を持っていた
部屋中に、私の影が増え始めた
ひとつは宝石を喰らい
ひとつは名誉を飲み干し
ひとつは他人の笑顔を噛み砕いた
私自身は、ただ床の上で震えていた
器の骨が内側から割れる音を静かに聞きながら
いつからだったか
何も奪っていない日にも私は
奪われた気がするようになった
それこそ、飽くことなき欲望の本性
私が最後に欲しかったのは、何も欲しがらない私
なのにその姿は、影にさえ映らなかった
名を持たぬ香
香りはなかったが、その空気を吸うだけで
身体の輪郭が溶けていった
それは、温度
皮膚に咲いた、名もなき炎
名前を呼ばれるよりも先に
行為そのものに触れていた
触れられるという現象が、皮膚の代わりをしていた
それは私ではないけれど、それがなければここに在れなかった
鏡の中の私が誰かに見られているときだけ呼吸を思い出す
誰かの視線が輪郭をなぞるたび、女となり、肉となり、時に器となった
そしてそれに抗おうとはしなかった
夜、夢の中で、唇が誰かの名を呟く
目覚める頃には、その音は喉に貼りついていて、剥がれなくなっていた
ベッドの上に残された、体温という名の残像
それに抱きしめられて私は、 孤独を愛撫した
求めること、求められること
その区別が崩れた時
私の指先は欲しいという動詞の代わりに
沈黙を撫でていた
声の代わりに、鼓動を差し出した
体の代わりに、境界”を剥いでいった
そしてひとつだけ
決して触れられなかった場所が、私の奥にあった
そこにこそ、欲望の本体が、静かに眠っていた
名を持たぬ香のように
形を持たぬ声のように
私はただ、誰かになりたいという
熱に焼かれていた
喉のない飢え
口を開いた
最初に呑み込んだのは、言葉だった
次に、沈黙
その次に、理由
最後に、自分自身の名を
胃袋は器でなく風
吹き続けることしかできずに何かを満たすことなど
一度としてなかった
私は飢えそのものになった
食べるためにではなく
食べつづけるために
皿の上のパンは、無数の指紋を吸っていた
誰かが触れた温度を、私の舌がなぞるたび
私は他人を喰らった
机の下でかすかに震える誰も座っていない椅子の影
私は一度だけ、丸ごと飲み込んだことがある
罪悪感は味がしなかった
祈りは骨のように硬かった
それでも喉はひとつも詰まらなかった
やがて私の腹には声が住み始めた
飲み込んだはずの誰彼が
内側で呻いていた
私は聞かなかった
それが欲する音なのか、拒否の声なのか
区別がつかなかった
食べるという行為が
私を私に繋ぎ止める唯一の行動になったとき
私は食べることをやめられなくなった
最後に口にしたのは
何も要らないという言葉だった
それを呑み込んだ瞬間、私はようやく
飢えの正体を知った
私が生まれた瞬間から
決して満たされることのない
存在という名の裂け目だった
黙示
序_無名の天秤
誰が重さを測ったのか
誰が傾きを許したのか
汝が手にした光が、何時より罪悪と呼ばれたのか
虚無の刃は、自己という名の天秤に降ろされる
神の声を求めるな
その沈黙が既に、応答である
我らは、生まれたその日に堕天していた
天上の斜塔
鏡を仰げ、己を高く掲げよ
それが始まりだ
語り部は天に指を差し、それが自分の額であると信じた
石を積み、石を叩き、血を讃えた
やがてその塔は、天上の書をも穿ち、 神の綴りし余白までも侵す
神は沈黙すら与えない
声を奪われた空の下、我々は初めて見た足元に、終わりがなかった
塔は、もはや彼の背だった
傲慢は、彼の名前を忘れた
緑の瞳、深淵の声
それは緑と呼ばれたもの
言葉もなく、輪郭もなく、他者の輪郭をなぞる指のように
静かに、濡れた視線が落ちた
彼女の笑顔を飲み込んだ花瓶が
何度、水を替えても腐臭を放つのは
一体、誰のせいなのだろうか?
鏡に映る彼女の頬に、自分の指紋を探していた
ガラスは語らず、ただ冷たかった
それは私自身の体温だったのだろうか
窓辺に吊るされた風鈴が鳴らない日
私は気づく、音を奪ったのは、鳴らす風ではなく、
耳そのものだったのだと
あの声を、あの称賛を、この胸にしまい込んで
何度も咀嚼し、吐き戻し、また飲み込んだ
胃の底で根を張る
私という名の土壌に芽吹いたものは
誰の名前を呼ぶのだろう?
見上げた夜空、星は沈黙していた
ああ、羨むほどの静けさよ
私は、誰の声になりたかったのだろうか?
沈黙する火
咆哮はなかった
叫びは生まれなかった
心臓の奥底で、震えを孕んだ地層が、ずっと眠っていた
刃は抜かれなかった
手も血に濡れてはいない
誰も気づかぬまま
一つずつ、皿が欠けていく食卓に、ずっと座っていた
怒りは、音ではなかった
無音の火、舌を焼かぬ炎、皮膚を焦がさぬ熱
見えない火種が、会話の隙間に潜んでいる
あなたの言葉の一文字ずつが、その薪となることを気づかずに
壁に掛けられた時計は、針が止まったまま、進んでいた
時間ではなく、瞬間そのものが裂けていた
私の中の私が、静かに私を睨んでいる
まだか、なぜだ、いつまでだ……と
ある夜、何もない部屋の空気が、ひとりでに破裂した
それが始まりだったのか、とっくに終わっていたのか
それさえもわからない
ただひとつ確かなのは、怒りは外に向けられる前に
すでに私という器を灰にしていた
白の遺稿
動くことは罪ではなかった
動かないことも罰ではなかった
思考が、床に染みる音を誰も聞いていなかっただけだ
窓は開いていた 風は来なかった
もしかしたら、私が風を感じることを忘れていたのかもしれない
机の上には、宛先のない封筒が、何百通も重ねられていた
中は空白 言葉の代わりに、溜息が綴られていた
時間は、液体だった
壁を這い、天井を濡らし、やがて私の眼球の裏側で、静かに凝固していた
まばたきを忘れた瞳に映るのは、昨日の影を引きずる今日、だけ
枕は私を眠らせてくれない
ただ頭の重みを受け取り、ゆっくりと沈んでいくだけ
深く、深く、思考の底に落ちていくと
自分の輪郭が滲んでいく
もう一度、起き上がる理由を探したけれど、その探すという行為自体が
あまりにも 重すぎた
やがて私は待つという行為そのものを、生きる代わりに始めていた
何を待っているのかも知らずただ、世界が私に追いつく日を
それが存在と呼ばれるものの
最も深い裏切りであると知りながら
器の骨
空であることを恥じる必要はなかった
空であることを許せなかった
私は、器だった
満たされるために生まれた
溢れることなど知らなかった
砂をすくう手のひらには、かつて地図が刻まれていた
欲しいものの位置、手に入れる方法
それらすべては、ひとつも私自身の言葉ではなかった
舌が喉に沈んでいく
言葉の代わりに、光を食べ音を飲み込んだ
それでも飢えと渇きは増していった
腹ではなく、心でもなく、もっと奥底で、
足りなかったという記憶そのものが、牙を持っていた
部屋中に、私の影が増え始めた
ひとつは宝石を喰らい
ひとつは名誉を飲み干し
ひとつは他人の笑顔を噛み砕いた
私自身は、ただ床の上で震えていた
器の骨が内側から割れる音を静かに聞きながら
いつからだったか
何も奪っていない日にも私は
奪われた気がするようになった
それこそ、飽くことなき欲望の本性
私が最後に欲しかったのは、何も欲しがらない私
なのにその姿は、影にさえ映らなかった
名を持たぬ香
香りはなかったが、その空気を吸うだけで
身体の輪郭が溶けていった
それは、温度
皮膚に咲いた、名もなき炎
名前を呼ばれるよりも先に
行為そのものに触れていた
触れられるという現象が、皮膚の代わりをしていた
それは私ではないけれど、それがなければここに在れなかった
鏡の中の私が誰かに見られているときだけ呼吸を思い出す
誰かの視線が輪郭をなぞるたび、女となり、肉となり、時に器となった
そしてそれに抗おうとはしなかった
夜、夢の中で、唇が誰かの名を呟く
目覚める頃には、その音は喉に貼りついていて、剥がれなくなっていた
ベッドの上に残された、体温という名の残像
それに抱きしめられて私は、 孤独を愛撫した
求めること、求められること
その区別が崩れた時
私の指先は欲しいという動詞の代わりに
沈黙を撫でていた
声の代わりに、鼓動を差し出した
体の代わりに、境界”を剥いでいった
そしてひとつだけ
決して触れられなかった場所が、私の奥にあった
そこにこそ、欲望の本体が、静かに眠っていた
名を持たぬ香のように
形を持たぬ声のように
私はただ、誰かになりたいという
熱に焼かれていた
喉のない飢え
口を開いた
最初に呑み込んだのは、言葉だった
次に、沈黙
その次に、理由
最後に、自分自身の名を
胃袋は器でなく風
吹き続けることしかできずに何かを満たすことなど
一度としてなかった
私は飢えそのものになった
食べるためにではなく
食べつづけるために
皿の上のパンは、無数の指紋を吸っていた
誰かが触れた温度を、私の舌がなぞるたび
私は他人を喰らった
机の下でかすかに震える誰も座っていない椅子の影
私は一度だけ、丸ごと飲み込んだことがある
罪悪感は味がしなかった
祈りは骨のように硬かった
それでも喉はひとつも詰まらなかった
やがて私の腹には声が住み始めた
飲み込んだはずの誰彼が
内側で呻いていた
私は聞かなかった
それが欲する音なのか、拒否の声なのか
区別がつかなかった
食べるという行為が
私を私に繋ぎ止める唯一の行動になったとき
私は食べることをやめられなくなった
最後に口にしたのは
何も要らないという言葉だった
それを呑み込んだ瞬間、私はようやく
飢えの正体を知った
私が生まれた瞬間から
決して満たされることのない
存在という名の裂け目だった
黙示