愛するということも起きること

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こんにちは。


もうすぐ数年ぶりにもう会うことはないだろうと
思っていた人と会えることになりました。
純粋に嬉しいなって感じています。


このような大きく動く感覚が生まれることも珍しく
遠くに行くということも
好みではないけれど
自然に湧き上がる時はこんな風に
湧きあがるものなのだなと
サラさんの様子を見ていて不思議でもありました。


この感覚はなんだ?と
考えていましたが
考えるも何も、考える前にもう在るのだし
そうでしかないではないかと・・・
考えに入り込むことが
どんどんと幻想、妄想が膨らんでいく。
過去のサラさんもそうでした。


本来、お腹すいたなと湧き上がるものと同じ
愛すること、愛されるということも
表面上、私たちは価値づけしますが
愛から、全体から生まれてるものというところから
見れば同じなのですよね。
価値の差はない。


愛というのは行為ではなく
起きてくること・・・


愛されることが素晴らしいという価値づけすることが
人の中には強く根付いているけれど
愛されようとして愛されるのだろうか。
誰かを愛そうとして愛したりできるのだろうか・・・


これらがもしできるのだとしたら
とても多い恋愛から生まれる人の苦しみはなくなることでしょう。


どうにもならない。
意図ない働きの上で起きてることだから、多くの『私』に苦しみが生まれる。
この『私』介さずに、それらは為されて起きています。


ご相談の中でも
周りの人に手放しなさいと言われるけれど
どうしようもなく想いがある。
そういう表現が生まれることも多いです。


周りに本来意見なんてできない中で
この想いは起きてしまっています。
仕方がないのです。


もう降参しかないということです。
恋愛にしてもすべてにおいて・・・
起きてくることに善し悪しはないのですね。
この私から感じられることのなのですから
相手と見える様子にも同じことがいえますね。


愛、全体という全受容に私たち存在は無関係。


どのような感覚も慈しみ味わえばいい。
素直にね・・・


様々な価値づけの中で生きているということが
日常の様子を見ていると
痛感します。
どれも等しく、価値に差はない。
鏡の曇りが少しずつ綺麗になっていくように
見える世界も変化してきますね。












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