チェーホフの可愛い女は、本当に可愛い女なのか

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小説
【心のデトックスライン】 にしだみゆです。

ロシアの作家、アントン・チェーホフ

その作品のなかに「可愛い女」という小説があります。

主人公のオーレニカは、愛の対象が変わるたびに、考え方も、価値観も、話すことも、まるっと入れ替えることのできる女性。

それを恥だとも思わず、ただひたすらに愛の対象に尽くし、彼らの言う言葉が彼女の言葉であり、対象が変わるたびに、真逆の意見を言うようになっても、受け売りの言葉で場をしらけさせても、まるで悪びれません。

現代の女性なら「意志がない」「自分がない」「男に依存している」などと言われるでしょうね。

でも、私はこのオーレニカみたいな女性、嫌いじゃないです。

私はここまで盲目的にはなれませんが、何の疑いもなく人を好きになれたら、それは弱さではなく、神に与えられた強さだなと思うのです。

どれだけ好きな人であっても、最初から丸腰で自分のすべての愛を持って向き合えることは少ない気がします。

あまり大事にされていない気がすれば不信感が募りますし、連絡が少なかったり、会う時間を割いてくれないと疑念が生まれます。

オーレニカは自分の愛する対象がそこに居てくれさえすればいいのです。

ある意味最強(笑)

我慢して尽くしているのではなく、それを喜びとして尽くせるマインドを持っている可愛い女。

トルストイが、この作品を家族や友人の前で4度も朗読し「これは真珠だ」と語ったほど。


この本は何度も読んでいる愛読書ですが、年齢を重ねてからのほうが、オーレニカの言動をすがすがしく感じます。

私がオーレニカをすがすがしく感じるのは、尽くす人だからではなく、人からどう思われようと、自分の好きな人を信じる素質を丸出しで生きているからです。

彼女が欲しいのは、自分の全存在を、心と理性のすべてを掴み、自分に思想を、生活の方向を与え、衰えゆく血潮をあたためてくれるような一つの愛なのである。

私はオーレニカにはなれないけど、私は私の素質を丸出しにして「可愛い女」になれるといいなぁ。


今日の1曲は久しぶりの和モノで。

オーレニカのマインドを昭和の日本で解釈するとこんな感じかなという曲です。

恋の奴隷
奥村チヨ

右といわれりゃ右向いて、とても幸せ♪

いやぁ、無理無理。

やっぱり私は「可愛い女」にも「恋の奴隷」にもなれないな。

自分の意思とは別に「可愛い女」「恋の奴隷」にされちゃってるよ…という人は、こちらの窓口でつらい心情をお話してくださいね。
























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