行間から漂う香り

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 よくしれらんひとに尋ねまうしたまふべし。またくはしくはこの文(ふみ)にて申すべくも候(そうら)はず。目もみえず候ふ。なにごともみなわすれて候ふうへに、ひとにあきらかに申すべき身にもあらず候ふ。よくよく浄土の学生(がくしょう)にとひまうしたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。

 親鸞聖人、85歳の時のお手紙です。ある人からの質問に対して、丁寧に的確かつ理路整然として応答されたお手紙の結びの一節です。
 丁寧にお答えになられたその上で、「この手紙にいちおう詳しくは書きましたが、よくお浄土について学んでいる人にお尋ねください。もう私はご存知のように老いてしまいました。目もよく見えません。なにごとも忘れてしまいました。人さまに教えを説くような身ではございません」とおっしゃっているのです。
 なんともいえず深い味わいがあって、私はこのお手紙が好きです。
 私はうまく表現できないのですが・・・、聖人が「老い」を静かに引き受けている香りが漂っている気がするのです。どこにも力みがなく、行間からは、自然の風景を観じているがごとき眼差(まなざ)しで自らの有りさまを語っておられる雰囲気を読み取ることができます。
一筋縄でいかないお方
 一方、このようにおっしゃられながら、聖人は90歳近くまで精力的に著述活動を続けられました。「悲嘆述懐(ひたんじゅっかい)和讃」のような緊張感あふれるご和讃や、近代哲学で高く評価された「自然法爾章(じねんほうにしょう)」を書かれたのは85歳以降の最晩年です。
 一方では自らの老いをあるがままに引き受け、一方では「浄土は恋しからず候う」(歎異抄)と語る。なんて一筋縄ではいかない方なのでしょうか。
 しかし、考えてみれば、「生きる」ということは一筋縄ではいかないんですよね。理屈で割り切れないことばかりです。私たちは、お念仏してお浄土へ往生させていただく身を喜びながら、這(は)いずり回って生にしがみつき、アンチエイジング(加齢への抵抗)を試みます。まさに、仏さまの教えと日常との狭間(はざま)でのたうち、宙づりにされる日々です。それが「生きる」ということでしょう。どこにも着地できない・・・。浄土真宗の教えはそこから決して目を逸(そ)らさない厳しさがあります。
 その中で、確かに確かに生と死を超える世界が開かれる、親鸞聖人が書き残されたいくつかのお手紙からはその実感が伝わってきて、私の心はゆさぶられます。
必ずお浄土で会う
 例えば、かくねんぼう(お弟子の覚念房?)という人が今生の息を引き取られたときには、かならずかならず一つのところへまゐりあふべく候ふ

 「必ず必ず同じお浄土でお会いいたします」と、手紙にお書きになっています。それは、「私はかくねんぼうと少しも変わらぬ道を歩んでいるから」という覚悟に立脚した揺るぎのない宗教性です。間違いなくお浄土へと往生させていただける喜びを語る聖人。
 その反面、『歎異抄』では、ちょっとした病気だけでも「死ぬんじゃないだろうか」と心配してしまう苦悩の世ではあっても「離れ難い」、そう告白した赤裸々な聖人が描かれています。
 どちらも親鸞聖人の実存(現実の存在そのもの)です。
 すごいですね。私など聞かせていただくほどに迷路の奥へと進むような気持ちになります。でも、間違いなく、心ゆさぶられます。
 普段とても大事に思っていることがつまらなく見えてきたり、いつもは考えてもいないものが浮上してきたり・・・。
 どうでしょう、みなさんもご一緒にゆさぶられませんか。 生と死を超える世界の扉が向こう側から開(ひら)けてくる教え、なかなか出あえません

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