気楽に読んでください、呼吸のおはなし ~その75~

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今日もお読みくださっている皆さん、ありがとうございます。
今日も街を歩きましたが、「一曲やってください」とギターは手渡されませんでした。

即興の話をしているところでした。
頭で考えてはいけない、それが即興の極意です。
呼吸もそうだったように、考えを止める努力は不要で、考えよりも一層も二層も深い処に即興は居ます。
タイトル通りに呼吸のことをこのブログでたくさん書いていた時に、雑念がどんなに肥大しても気にすることは無いと述べました。雑念に覆われた層の深い処には必ず呼吸が息づいていて、雑念ごときでは決して止まらないその営みの強かさにこそ気付くことが大事ですと。
即興も同じ、一瞬考えてしまうのは大きな脳を持つ人間の性質上当たり前のことなので、それはそれとして放っておいて、その下を迸る体からのメッセージを経由無し翻訳無しでサラッと出してしまうことが大切です。
これは、危険な事だと思われるでしょうか。
呼吸をあれやこれやといじくり回さないことを奨励する理由は、酸素という生命維持に不可欠な要素を得る為に、わざわざオーバーワークとなるような運動としての呼吸を体は絶対に提案しないと考えるからでした。
傷を負っても時間が経つと自然に塞がっている、そんな体に任せるのです。
有害な菌やウイルスが侵入すると免疫力で闘ってくれる、そんな体にです。
もしも何か思い詰めて追い詰められて、悩みや恐怖に圧し潰されそうになって思い余って岸壁に立ち尽くしたとして、そこに足を運ばせたのが暴走する頭・思考の仕業だとすると、もしもその時突然想定外のタイミング、アクシデントで足を滑らせて本当に崖から落ちそうになった時に咄嗟に何かにしがみ付いて助かろうとするのは体の仕業で、その、体の方に任せるということです。
即興を勘違いして頭でやってしまうと損得勘定や奇をてらうなどの危険が必ず付き纏いますし、そもそもそれを即興とは呼びません。
体に任せることは危険どころか、体は常に生きようとしてくれています。
昨日書いた空手の型の話、あれは、型を敵のあらゆる攻撃パターンを網羅した実戦ドリルとしてしか活用出来ないのだとしたら、習ってない技を習ってないタイミングと角度で仕掛けて来る敵が現れたらそこで終わりになってしまう、ということで、そんな残念なことは無い、本当の型の持つ意味とは、そんなもんでは無いんでしょう?という問い掛け、型は型に囚われる為にやるものでは無いのでしょう?という確認の意味でもありました。

即興の源にはやはり呼吸があります。繰り返しますが、体は常に生きようとしてくれています。
本当の即興とは、テロやゲリラのようなハチャメチャ・滅茶苦茶をやることでは無く、生きる為の力、生まれて来た時のエネルギーのベクトルを思い出すこと、今あるモノで今を表現するしか無いという覚悟と勇気に目覚めさせてくれること、そして、今あるモノとは実はそれが全てであり、無限であるということに気付かせてくれることなのです。

つづく

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