「将来の夢」とは、職業を答えなければならないのか…。
これは子供の頃からの疑問であった。
人生で初めて「将来の夢」を聞かれたのは…おそらく小学1年生のときだろう。私は「山で動物と暮らしたい」とか「馬を飼いたい」とか、答えたと思う。
「そうじゃなくて、将来なりたいものを書くのよ。」と先生が正す。
「………。」
(じゃあ、将来就きたい職業を書きなさいって言ってよ…)
そして、私の親も、やたらと子どもに「将来の夢」を聞く親であった。
「山奥で一人で動物を飼いながら、一人で暮らしたい」というと、怒られた。私がひとりで心に抱いている「夢」を勝手に表に引きずり出しておいて、怒るとは何事だろうか。
「将来の夢」を聞かれたら、「職業」を答える。…何度かの失敗と混乱を経て、私はそれをインプットした。
私は「イラストレーターになりたい」と答えるようになった。
しかし、次は、その職業がどんなに「食えないか」を力説されるようになる。「わかりました。やめます。」と言うまで、怒られているのと同じ雰囲気で説得が続く。
「そんな夢をもつお前は、馬鹿だ。」とさえ言われる。
家族の雰囲気が悪くなるので、また「正解」を模索する日々が続いた。次第に、「将来の夢」を聞かれたり書いたりすることに恐怖を覚えるようになってきた。
頭で自由に思い描いていたことを勝手に引きずり出して、叱責し、矯正する。
それは、夢の検閲だ。
そして、大人たちは私たちを「正しい方向に」導こうとする。アブナイことを考えていないか、食えない道に進もうとしていないか。
そして、子どもが「正解」の範疇に収まる夢を提出したら…あとは、簡単。
「自分の言ったことに、責任を持ちなさい!」
「大変な職業だって言われて、やめたんだから、その夢は自分の意思で諦めたんだよね?」
と、尻をひっぱたけばよい。
…大変そうだと言われて辞めたんじゃない、「親がそうしてほしくなさそうだったから」「家族の雰囲気が悪くなるのが嫌だったから」辞めたのだ。
でも、後悔はしていない。
「家族が喜ぶ自分」であること。あり続けること。それが一番なのだから。
***
ここでまた、冒頭の疑問に戻るけれど、「将来の夢」とは、職業を答えなければならないのだろうか…。
究極、「幸せになりたい」ではダメなのか。
個人的には、「将来の夢」を聞く時間は、子どもが「どういうタイプの幸せ」を求める人間なのかを知る機会…と捉えるのが良いのではないかと思う。
「お金ありき(タワマン住んでフェラーリ乗りたいとか)の幸せ」なのか、「スローライフ」的な幸せなのか。それとも特出したものは望まず、奥さんと子どもがいる生活をしたいのか。本当にその職業(野球選手とか)自体をに憧れるのか…。
そして、その生活(=幸せ)のためには、どのくらいの収入が必要で、その収入圏を狙うには、こういった職業に就く必要がある…とか、そいうう会話があってもいいと思うんだ。
とはいえ、今の時代、本業はしがない会社員だけど、絵師やネットアイドルとして億稼いでいる…みたいな人もいると思うので、必ずしも就いている職業と収入は結びつかない。
付きたい職業と、理想の暮らし、稼ぎ方…そのへんも込みで話せればいいけど。親子だと世代間ギャップが大きすぎて、難しいね(笑)