小説『DNA51影たちの黒十字』(続ロザリンド物語) 〜15〜

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小説『DNA51・影たちの黒十字』
(続ロザリンド・フランクリン物語) 〜15〜
Rosalind Franklin Photo51

   16 Rosalind Franklin 
                Photo#51と戴冠式

 1953年 春。
 3論文が雑誌4月25日号に掲載された頃。
ロンドンの街では、国王ジョージ6世が前年
1952年2月6日に亡くなって以来の喪も明け
て、エリザベス女王陛下の戴冠式6月2日が
間近に迫って来ると、華やかに沸いた春の空
気も徐々に夏空の装いへ移行し始めていた。
 また、ユダヤ財閥のサッスーン卿の愛馬
ピンザ号も転倒負傷で英2000ギニー競走
(日本の皐月賞相当)は不出馬で棒に振った
ものの、その後は順調に回復し、成長も
遂げて、新たなる怪我などアクシデント
さえ無ければ、6月6日の英国ダービー
出場は確定的な路線となっていた。


 ここで、3論文の掲載順番をめぐって雑誌
編集者と執筆陣との間で見解の相違があった
ことが判った。雑誌編集者が、3論文のうち
賢振寺大学のクリック&ワトソン論文を先頭
に掲載し、2番手3番手に倫敦大学ウィルキ
ンス&ストクス&ウィルソン論文、ロザリン
ド&レイモンド・ゴスリング論文の順で掲載
したからである。
 編集者は “二重螺旋説”   を3論文の主役
としたいとの意向だったのである。これに対
して、倫敦大学側執筆陣は
   “B型構造結晶発見と螺旋形態説“        
が3論文の主役で掲載されると考えていた。
倫敦大学執筆陣はこれまで螺旋形態を予想し
てきており、“二重螺旋の形態”  もその中に
入っていた。そのような状況下にある中で、
B型構造が発見され、二重螺旋説はさらに濃
厚となってきている。そのような流れで論文
を発表する訳で、記述内容もその筋に沿った
文脈で執筆されてきていた。
 雑誌編集者は倫敦大学の掲げるそのような
経緯や流れよりも、新説 ”二重螺旋“  を衝撃
的に盛り上げたい。Nature誌と言えども雑誌
の販売戦略からすれば、読者の関心を惹きつ
けるような誌面作りに持っていきたいのだ。
 当初のウィルキンスの目論みの一部はここ
で瓦解してしまった。Nature誌の編集者の
商業的な掲載方針を読み切れなかったウィル
キンスの不覚と言わざるを得ない。
 ウィルキンスは言い訳を考えた。

『ワシが2番手に行ってやな、ロザリンドが
あの衝撃的画像であるPhoto#51を最終論文
にぶつけてトリを締めたんや・・・・・・。
どないや? こちらの、あの “Photo51番”
が主役や。主役は最後のクライマックスで
登場したんやぁ・・・・』

 ロザリンド論文の初頭部分でロザリンドは
核酸結晶体のX線回折画像研究のこれまで辿
ってきた道のりを記述した。それは、

 ❶1949年ファーブルク論文(倫敦大学)で
      ファーブルクはX線研究手法を
      ヌクレオシドとヌクレオチドに対して
      適用し、 “フアーブルク・モデル”
     という形で 構造の実態研究 に於いて
  の研究成果を出した。
 ❷続いて、倫敦大学のストクスは
      未発表論文ながらも核酸結晶体に
      螺旋体の特徴を見い出した。
 ❸倫敦大学のウィルキンスもそのような 
           “ 核酸結晶螺旋体構造 “
      を予測した。
 ❹クリックおよびコクラ ン,ヴァンドらも
      その構造について同様の見解を示した。
 ❺そして、51番X線回折画像の撮影成功
  によって二重螺旋体の可能性がさらに
  濃厚となって出てきた・・・・・、と。

 ロザリンドは先頭掲載されることを想定し
て論文書き出しをしたのだが、編集者の意向
でそれが最終3番手の位置での掲載となって
しまった。ウィルキンスがどんな”強がり“を
言ったとしても、それは誤算のひとつである
ことには変わりのないことである。
 これまでのキングスカレッジ倫敦グループ
が辿ってきた成果が霞むような掲載順番に
ロザリンドは大いなる不満を抱くのだった。
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