『ロザリンド・フランクリン物語』
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ロザリンド・エルシー・フランクリン
(Rosalind Elsie Franklin:1920年7月25日~1958年4月16日)
ロザリンド・フランクリンはユダヤ人銀行家の娘で、
6人兄弟姉妹の長女としてロンドンに生まれました。
ロザリンド・フランクリンは、科学者として成長し、フランス留学を経て、
1950年、ロンドン大学のキングス・カレッジに研究職として着任。
X線結晶学の研究生活をスタートさせます。
X線結晶学とは、研究対象とする結晶体へX線を照射し、
その物質のX線散乱パターンを逆フーリエ解析を用いて解析し、
対象とする物質の分子構造を解明していく研究分野です。
そして、彼女に与えられた研究テーマこそ、X線照射によるDNA結晶の解析だったのでした。
ロザリンドは、研究開始からおよそ1年後、
DNAには水分含有量の差によって2つのタイプ(A型とB型)が存在すること、 それを互いに区別して、結晶化する方法まで確立させます。
また、その結晶へのX線照射で生まれる散乱パターンの写真撮影にも成功しました。
そして、それらデータについては公表せずに、秘密裏に数学的解析を自力で進めていました。
3年後の1953年には、DNAの二重らせん構造の解明につながるX線回折写真の撮影にも成功しています。
1953年のある日のこと。
ケンブリッジ大学のワトソンとクリックは、このロザリンドのX線回折写真を秘かに盗み見ます。
そして、この盗み見たロザリンドのX線回折写真を元にして、
1953年、ワトソンとクリックは、Nature誌に『DNAの二重らせん構造』に関する論文を発表するのです。
つまり、ワトソンとクリックの『DNA二重らせん構造論』は
ロザリンドの撮影データを彼女に無断で利用して書かれた論文であったのです。
そして9年後の1962年。
ワトソン、クリック、ウィルキンスの3名はDNAの構造を解明したとしてノーベル生理学・医学賞を受賞することになります。
このことは、二重らせん構造解明の手がかりとなる歴史的大成果をあげたものの、後に大問題となります。
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ワトソン、クリックのNature論文発表当時。
ロザリンドがロンドン大学に着任する以前から同分野のDNA研究をしていた同僚の
モーリス・ウィルキンスとロザリンドとはDNA研究をめぐって対立していました。
そして、モーリス・ウィルキンスはロザリンドの撮影した写真を彼女に無断で、
ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所の
ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックに見せたのでした。
この件について、クリック、ワトソン、ウィルキンスはどのように言い訳をしているのでしょうか。
①まず、"マックス・ペルーツ⇒クリック" ルート:
ロザリンドは1952年に自分の『非公開研究データ』をまとめて年次報告書として
英国医学研究機構に提出していますが、
英国医学研究機構の予算権限を持つメンバーの一人で、
しかも、ケンブリッジ大学のクリックの指導教官でもあったマックス・ペルーツが
その研究報告書を入手し、そのマックス・ペルーツ経由で報告書がクリックへ手渡されました。
この非公開レポートには、DNA結晶の生の解析データだけではなく、
ロザリンド自身による解析結果、測定数値の解釈コメントなども書き込まれており、 まさに、DNAの結晶構造を示唆するような書類でありました。
この件について、クリックは何も語ってはいませんが、
翌年の1953年、ワトソンとクリックは、 Nature誌に
『DNAの二重らせん構造』
に関する論文を発表しているのです。
②次に、"ウィルキンス⇒ワトソン" ルート:
ワトソンは、著書『二重らせん』の中で、次のように述べています。
『ウィルキンス(ロザリンドの同僚)と
ロザリンドとの関係が
険悪な対立関係に陥った為に、
ウィルキンスはロザリンド撮影の写真を
自分たちにこっそり見せたのだ』
しかし、ウィルキンスは著書『二重らせん 第3の男』の中で、次のように述べています。
『いや、ロザリンド撮影の写真データを閲覧する権限は
あくまでも自分にあり、
ロザリンドもそれを認めていた』
* * *
そして、1953年にワトソンとクリックが、Nature誌に
“DNAの二重らせん構造”
に関する論文発表してから5年後、それは、この論文でワトソンとクリックが
ノーベル生理学・医学賞を受賞する4年前になるのですが、
ロザリンドは不幸にも1958年4月16日に37歳の若さで永眠してしまいます。
死因は卵巣癌と巣状肺炎の悪化でした。
一般には、実験中に無防備に浴びた大量のX線が、ロザリンドに癌を発生させた原因だといわれています。
ロザリンドの研究データは、彼女が自分の命と引き換えに得た研究データといえるでしょう。
そして、ロザリンド病死(殉死)の4年後。
1962年。ワトソン、クリック、ウィルキンスの3名がDNA構造解明によりノーベル生理学・医学賞を受賞するのです。
特にウィルキンスなどは、対立相手ロザリンドのデータによってノーベル賞を受賞したようなものです。
ロザリンド自身は既に死亡していたため、受賞の栄誉・名声は得られませんでした。
歴史上、『DNA二重らせん構造』の発見はワトソン、クリックによるものとされています。
ロザリンド自身、『DNA二重らせん構造』を示すデータ自体は手に入れていたものの、
『DNA二重らせん構造』
であるとの最終結論へは到達していませんでした。
データから最終結論を引き出す前に人生の幕が降りてしまったからです。
しかし、ロザリンドのデータがなければ、
ワトソン、クリックもまた『DNA二重らせん構造』であるとの最終結論へは到達できなかったでしょう。