自ら分けられたもの・・・自分

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コラム
おはようございます。

私たちは本当に様々なことを体験します。

苦しいだったり、悲しいだったり、楽しいだったり・・・

その出来事としての現れは、元一つから成される
結果。

以前も少し触れたけれど、そこに主観でジャッジはできないのです。

苦しみ=今に対するジャッジ=抵抗

という風にも言えますよね。

現れる世界に対し、ジャッジが生まれたら・・・
そこには、”思い込み、囚われ”があることを気づかせてくれていて
一つ解放するチャンスに恵まれているのです。

その苦しみを感じる”自分”・・・

『自分』という言葉。

そのことについて語られていることになるほどな・・・
と感じることがあったのでシェアします*^^*

自分・・・
自らを分けると書いて自分。

ということは、自らを分けられたものが自分ということでもあるので
この”自分と思ってる者”
私であれば、”私はサラです”と思う者も自らを分けられたものだのですよね。

自らの分身。

大元は背後に大いなるわたしという意識として在る。

その在るいう意識の分けられたもの、

”私”であり、”貴方”であり、椅子、机、山、太陽・・・見えるもの全て。

全てが繋がってるということも
見えるものは、私含めて自らを分けられたものたちなのだと
感じています。

生命、光、愛とも表現される意識。

そうイメージとしてでも、少しでも感じることができれば
”私は”と表現したとき、少し広がったような、
見えるものを大切に感じるような心地が生まれてくるように思います。

自らを分けたものに対し、湧いてくる感情・・・
苦しみがあるのであれば、何か気づかせてくれてる。

どんな憎しいと感じる人も、同じ生命、光、愛の表現として
現れている者たち、
そして、”私”を通し、現れるそれに良い悪いはなく、尊いエネルギーなのでした。

自分・・・

自らを分けられたもの。

実は個の自分がすべてだったわけではなく、自らを分けられた尊い存在だったのですね・・・

”貴方”も”私”も、自ら(生命、光、愛)から分けられた、生命、光、愛。

その自ら(生命)の分けられたものたち(個)が全て生命の表現
育みとして現れている。

だから、その分けられたもの(個)がその一つの”自分”に起きた出来事として
ジャッジすることはできないのです。

どうしようもない・・・とショック受けますか?
でも、逆に成されているのなら
なんだって表現しても大丈夫という安心感にも包まれないでしょうか^^

自ら(生命)の中にいつもいつも守られていること
ちょこっと感じられれば素敵だな~って思います。

今日もありがとう♡







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