カルマの解消と使命の覚醒について

記事
占い

今日はカルマの解消と使命の覚醒についてのお話です。

ヒーリングを学んでいたとき、カルマの解消と使命の覚醒は同時に行う必要がある、と教わりました。

それがなぜなのか、についてです。



私には、辛い出来事により、精神的、霊的な問題を抱えるというカルマがありました。

そのカルマがあったからこそ、私はヒーリングを学び始め、シャーマンにもなり、癒しに関する学びを深めることができました。(使命の覚醒)

自分が癒されていないときは、自分と同じように問題を抱えている人を癒したい!という気持ちが強くなりました。(これも使命の覚醒)

でも、ある程度自分自身が癒されて、自由度が増してくると、本当にヒーラーになるべきなんだろうか?っていう迷いも実は出てきたのです。

不思議ですよね。

自分が癒されてなかったときは、癒されていないからこそ、癒しの重要性をすごく感じていたんですけど、自由度が増してくると、あれ?私は必ずしもヒーラーになる必要はないのかもしれない、カルマに囚われなくても、他の可能性だって私にもあるのかもしれない、と思えてきたんです。

カルマって学びの種だから、カルマであったものが解消されてくると、あれ?私って今すごく自由だけれど、何のために生きているんだっけ?ってなってしまうのです。

だから、カルマがなくなれば幸せになるか、というとそうでもなくて、カルマであったものを失い自由になっても、カルマから得たギフト(学びや能力や叡智)の活用性を深めることができてなかったり、使命の覚醒の度合いが弱いと、とってもぼんやりとしてしまうんです。

それまではカルマがあったからこそ、どうにか自分を変えなきゃと思っていたもの、原動力になっていたものを失うと、生きる意味を失ったような空虚感を抱くこともあります。

ヒーリングを学んでいたとき、カルマの解消と使命の覚醒は同時に必要になると学びました。



でも、逆の場合もあり、あまりにもカルマに囚われすぎて自分を重たくしてしまう例もあります。

ある程度の重たさはこの地上で生きる上ではグラウンディングにも繋がり、ふわふわせずに他者や社会貢献できる自分の支えにもなります。

でも、自分に重たい十字架を背負わすように、こうでなければいけないというところに閉じ込めて、あまりにもカルマの側面を取り入れすぎて、自分から自由を奪ってしまうと、全てが自己犠牲や承認欲求をベースにした活動になってしまうこともあります。

重たい十字架を背負わすこと、困難を選ぶことで、誰かに認めてほしい、許してほしい、という気持ちに繋がっていることもあります。

だから、カルマと使命の関係性ってすごくよく内省して見つめなければいけないものでもあります。

それがただカルマに囚われているだけなのか、本当の愛や喜びなのか、と。

自分のケアが上手くできてないのに、人のためにが強くなりすぎていると、バウンダリー(境界線)が上手く構築できず、自立した健康的な活動が難しくなることもあります。

自分を自由にした上で、愛や喜びをベースに活動できたら、もっともっと軽やかに幸せになるのだと思います。

カルマからのギフトを受け取りながら、カルマに縛られることも囚われることもなく、自分を自由にした上で、使命を生きる。

カルマ以外の自分の個性や趣味や喜びも大切にしながら使命を生きる。

そうしたことがとても大切なんじゃないかなぁと、何より自分に言い聞かせています。



私も承認欲求が強くあったので、自分を後回しにしてでも何かにエネルギーを注がなければ、何かしてなくちゃ、満たされない…そんな思いをベースに生きてたこともありました。

でも、これからはより自分の喜びを生きることと自分へのケアを大切にして、その上でヒーラーやセラピストとしての活動をしていきたいな、と思っています。

カルマがあったことでより深まった自分の愛を信頼できたとき、学んできた自分を信頼できたとき、それをどのように活用したらいいかも気づけて迷いがなくなったとき、そのときはもうカルマを完全に手放して、より自由になった新しい自分の姿で生きてもいいのです。

そう、新しい自分を信頼できたら、そのカルマを完全に手放していいのだと思います。

それがカルマの手放しと新しい自分への祝福のフェーズであり、終わりと始まりです。



🌿記事に無条件の愛のヒーリングを流しています🌿
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す