16歳、NYへ渡る。【4】

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コラム
ここで、一つ言っておきたいことがある。
私は自分の今までの人生に悔いはないし、全てはなるべくしてそうなったと思っている。

経緯はどうであれ、最終的に私の冒険はとても有意義なものだった。

想定外の出来事には見舞われたけれど、決して自分を不幸だと思ったことはない。なぜなら、私には選ぶ権利があったから。
自由とはイコール楽なものじゃない。
幸せもまたイコール楽ではないのと同じこと。

とにかく。
私はある時、大きな交差点に出会い、自分で進む道を選んだ。
確実に苦労すると楽ではないと分かっている道を自ら選び取った。
選ばなかった道で負うであろう苦悩や葛藤よりも、選んだ道の苦労のがまだ望ましかったからだ。

さあ、さっさと書いてしまおう。
前回は私の物語の「起」のはじまりについて話した。だから今回はその終わりについて話そう。「承」へつづく物語を。

私の選んだ高校は、単位制の高校で一年目で必修科目を履修すれば、2年目から必修の他に「ドイツ語」などの他国言語などを選択できるという特色があった。
私は本好きが高じて言語に興味があった。
もしも、大学に行くことができれば外国文学や言語学を学びたいと思っていたが(高校に進学した当初は、親に頼らずに大学へ進む方法を模索していたしまだ諦めていなかったが)万が一行けなかったとしても、これで少しは好きなことを学ぶことができると思ったのだ。

私にとっての学業とは、強いられて勉める「勉強」ではなかった。自ら業を求めて学び習得するものだ。義務教育はともかく。それ以降、親のお金を使わせてもらう以上、なおのことそうだった。

一年目、私はバイトもはじめ、軽音楽部にも入り、2年目に向けて精一杯学校生活を楽しんだ。
再び、学べることを、高校に行けたことを感謝していた。
部活とは名ばかりで、活動も希薄で楽器や楽器庫はおろか、部室さえなかった軽音楽部を鼓舞して最低限の楽器を中古店などでかき集め、活動内容を明確化してスケジュールを立て、念願の楽器庫を獲得し、文化祭で全バンドが演奏できるまでにこぎつけた。
できるだけ母の負担にならないようにバイトで稼いだお金でできる範囲で自分のことは自分で賄った。
この調子なら、きっと充実した高校生活を全うできるだろうと思っていた。

しかし、待ちに待った高校生活2年目を前にした時、またもや想定外の交差点が私の前に立ちはだかった。
私が履修を望んでいた選択科目全てが希望人数が少ないという理由で開講しないというのだ。まだまだ未熟だった私は、そんな落とし穴があるとは思いもしなかった。

さらに、同じ頃、父親のギャンブル癖の影響が思っていたよりも大きかったことを思い知った。私のために母が組んでいた学資保険にまで手を出していたのを偶然知ってしまったのだ。
私が心の底から楽しんでいた一年、母は私が思っていた以上に人知れず(母は祖父母にさえ父の悪癖やお金のことを話していなかった)苦労していたであろうことを思うと私は自分が恥ずかしくなった。

その時、私の中にあった選択肢は二つだ。
全てを仕方ないと諦めて、自分の望まない科目を取り、母の苦労を承知の上で母の望み通り卒業するか。
退学して自立し、他の道を探すか。

そして、私は選んだ。
母や祖父母は反対し荒波が立ったが、私は揺るがなかった。
そして私は、私に唯一ノーと言わない人物。父を伴って高校へ行き、退学届を提出した。

こうして、ようやく私の「起」は幕を閉じた。

ーつづく。

「人生における最大の栄光は、決して転ばないことにあるのではない。何度転んでも起き上がることにあるのだ」
ー孔子






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