16歳、NYへ渡る。【2】

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NYへ渡る。と言う決断が私にとってどんなに大きな決断だったのかを知ってもらうには、私の家族を知ってもらう必要がある。

私の家は、今時珍しい大家族だった。
父母、妹、祖父母、曽祖母、叔父、叔母、そして猫が二匹。

祖父は板金職人で、祖母は料理や裁縫、茶道に着付け、なんでもござれのすごい女性で、私は2人を尊敬し、今でも大好きだ。

我が家の女性は結婚、出産が早かったから、まるで祖父母が第二の両親であるかのような環境だった。
私はある意味とても幸運な幼少期を過ごした。
特別裕福ではなかったが、孤独はなく、空腹な時もなく、多くの経験を与えられ、多くの師と多くの温かい手で守られていた。

そう、近年稀に見るほど恵まれた子供だった。

5歳の頃、祖父に連れられて祖父が所属していた睦で江戸祭囃子を始めた。そこでも私は唯一の子供として、とても大切にされた。そこで私はあらゆるお祭りを経験し、楽譜のない音楽を学び、音で人を笑顔にできることを学び、そのための努力を、幼い頃から親元を離れ、旅をすることを学んだ。

祖母は躾けに厳しい人だったが、それが愛ゆえだと私は知っていた。
祖母は私が後に、仕事にするようになる料理を教えてくれ、茶道を教え、自分のことは自分でできるように様々なことを教えてくれた。
工作が好きだった私が自由に想像力を羽ばたかせることができるようにしてくれた。

かと言って、全てが完璧だったわけではない。完璧などあり得ないのだ。

私の父はほとんど家にいなかった。
祖父母は仲睦まじかったが、両親は不仲だった。
父は根っからの良い人ではあったが、大きな弱点があった。ギャンブルだ。
母が泣くのを聞いたのは一度ではない。

それでも私には常に安全な逃げ場があった。
母と喧嘩をすればこっそり優しい曽祖母の部屋に潜り込んだ。
悲しいことがあれば、お囃子の演奏にのめりこめた。
静寂や共感が欲しければ本の世界へ渡ることができた。

だから、幼少期の私は、いわゆる「いい子」だった。
秀才ではなかったものの、勉強が好きで、本が好きで、校則を破ることもなく、いじめは大嫌いで恐れてもいなかった。多くの先生の「お気に入りの子」だった。将来行きたい大学も夢もあった。

そして、心にはいつもこんな思いがあった。
「育ててくれた祖父母の誇りとなる人間になりたい」

ある日、まだ幼かった私に祖母がこんなことを言ったのを覚えている。
「可愛い子にはね、旅をさせるの。いつの日か、自分の足で厳しい現実に立ち向かわなければいけない時が必ず来るから。その時に備えさせるのよ。」

そう、現実は本当に厳しかった。

ーつづく。

人は、人生が公平ではないことを悟れるくらい成長しなくてはならない。
そして、自分の置かれた状況の中で最善を尽くすのだ
ーStephen William Hawkingー

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