「心と体の健康入門⑥」~「ストレス・フリー」から「自然治癒力」増強へ~

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学び
(3)「ポジティブ・シンキング」と「ネガティブ・フィーリング」のバランス

③「自分にとっての意味・意義」を「発見」出来る人は全ての環境・状況がプラスになる

キェルケゴールの「実存弁証法」~キェルケゴールは人間の自己生成の問題を3つの「実存段階」において展開させようと試みました。

①「美的実存」=就職より趣味、結婚より恋愛、外的対象の美的享楽、自分の内面を享受する美的・感性的段階。人間が自己の実存の意義と課題をまだ意識していない直接的な生存の段階。この段階にある人間は次から次へと享楽を追って生きており、健康や美が最高の善だという考え方もこの段階です。しかし、このような享楽の果てに待っているのは倦怠であり、退屈です。そして、健康は不安定であり、美は移ろいやすい。結局、このような「美的実存」の段階はそれ自体が矛盾であるがゆえに、目標の追求はついに挫折と絶望に陥り、一層高い実存段階への以降に道を開くことになります。

②「倫理的実存」~結婚生活と職業生活を真面目に選び取る、日常の人間的義務を真剣に営む倫理的立場。人間が自己の実存の意義を自覚しており、人間が実存しながら実現すべき普遍的人間的なもの、すなわち倫理的なものを義務の名の下に理解している段階。「倫理的に生きる」とは「人間が自分のなるべきものとなる」ことですが、このような倫理の根底には、人間は誰でも普遍的人間的なものをこの個別的な自己の内において実現することができるという前提が潜んでいます。だが、倫理的実存の徹底的な追求によって、そのような前提の不条理が暴露され、この挫折は不安と絶望を通して次の段階へと進むことになります。

③「宗教的実存」~
「宗教性A」=内在性の宗教(キリスト教以外)の段階。「わたしは特定の宗教は信じないが、神や霊の存在は信じる」というもので、何の普遍的な媒介もなしに、神の前にただ独り立つ「単独者」であり、「主体性が真理である」とされます。
「宗教性B」=超越性の宗教(キリスト教)の段階。負い目の意識、罪の意識を持ち、「主体性は虚偽である」とされ、「キリスト」を通して成就する「神との逆説的な関わり」こそが本来の信仰であり、実存であるとします。

エックハルトに見る「牧会」(キリスト教的カウンセリング)~マイスター・エックハルトは、ドミニコ会修道僧にして中世最大の神秘主義者であり、説教者として優れていたことでも知られています。人間が抱く苦悩を消去することは出来ませんが、自らを捨て超越者に全てを委ねることでより正しい方向へと導かれることが出来るので、彼はキリスト者としてどのように生きるべきか、どのように外的な世界と関わるべきか、を主に説いています。
 エックハルトの思想は禅に似ているとされ、失ったものを恨むのではなく、与えられたものを感謝しなさいと言います。いくらかお金を失った時でも、残っている部分を感謝せよ、私たちは生まれた時には何も持っていなかったではないか。マタイ福音書の有名な「片目で神の国に入る方が両目そろっていてゲヘナ(地獄)に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです」というイエスの句もエックハルトによれば、片目の人は失った目のみを後悔することなく残った片目を感謝しなさい、という話に解釈されるのです。無くなったものではなく、そこにあるべきものを「前向きに」重視する。また、エックハルトはキリスト者といえども、現世の何らかの仕事に従事しなければならないことを踏まえ、キリスト者として仕事をなすことを善と見なします。このような考えは中世キリスト教の神学者とは思えない程に近代的であり、仕事を肯定的に見なし、仕事によっても神の意に適うことができるというエックハルトの仕事観はカルヴァンの労働観の先駆とも言われているのです。
 また、エックハルトによれば、自らを消し去り、神の子として生まれ変わったものは被造物を超えた存在となるため、如何なる被造物からも悩まされることが無くなるとされます。被造物から生まれたものは被造物に悩まされますが、被造物にあらざる神から生まれたものは被造物による悩みを持ちようがない。それでは現に悩みがある者はどうすべきなのかというと、悩みを神から受け取るべきであるとエックハルトは言うのです。神の内で「神、共に悩み給う」のを喜ぶべきなのであるというのです。悩みが消えるような慰めが神から与えられない時は、「恩寵を受けない」という仕方で受け取っているのであり、受けないということで受けることにより、一層本来的に神を受容することになると考えます。あらゆるものを受容することはエックハルトの中心的な教説の一つなのです。
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