可能性を狭めてしまう常識を破る

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唐突ですが、あなたにとって「常識」とはどの様なものだと考えますか?

「あの人は常識がない」
「常識では考えられない」
「そんなのは常識だ」
という言葉はよく聞きます。しかし、それでは「常識とは何か」と尋ねると返ってくるのはあいまいな答えばかりです。
では、一体「常識」とはどの様なものなのでしょうか。
それは必ず持っていなければならないのでしょうか。
そして「常識」から外れることは許されないことなのでしょうか。

「常識」を辞書で調べると、次の様に記述されています。
○ある社会で、人々の間に広く承認され、当然持っているはずの知識や判断力。(大辞林)
○普通、一般人が持ち、また、持っているべき知識。専門的知識でない一般的知識と共に理解力・判断力・思慮分別などを含む。(広辞苑)
この辞書に記述されている言葉で「常識」とは何かが理解できたでしょうか。私には正直よく理解できません。

そこで、もう少し「常識」とはどの様なものなのかを調べていくと、次の様な説明をしているものがありました。
●常識の中身は、次の3つの要素から成り立っていると考えられます。
『知識』→→社会を自立的にたくましく生きるための基本的要件である「読み・書き」と「衣食住」の対応行動。
『良識』→→倫理・道徳観に根差した人間性。これは、いつでもどこでも通用する人類普遍の原理。
『見識』→→文化に根ざした安定した行動様式。すなわち、礼儀・作法・エチケット・言葉遣い・しぐさ。これは社会を美しく生きるセンス。

さらに、こんなものも。
“アルベルト・アインシュタインの名言”
「常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションのことを言う」


これは、私の個人的な考えなのですが「常識」とは普遍的なものではなく、「常識」を唱える者の基礎となる教育や知識、時代背景や生活環境によって確立されるものであって、不安定で一定なものではないと考えます。
もちろん「一般常識」と言われるような、絶対的なものもあると思いますが、それも現在の急速な倫理・道徳観の変化によって存在する「一般常識」は一定なものとはいえない。

「常識」は複数の人間がもつ異なるもの。もっといえば、おそらくすべての人間が持つ「常識」は少しずつ異なっているのだと思います。
「一般常識」も同様なことがいえて、科学的な根拠などを必要とせず人々が信じるものが「一般常識」となる。そのことが顕著に表れていた出来事は「昔は地球は球ではなく平らである」と信じられていたことや「急激な技術進歩により誰もが持つ携帯電話」などでしょう。

「常識に囚われない」
この行為は、今の世の中には「必然」な事なのかもしれません。
「思慮分別」が、生きていく上で大切なのは言うまでもありません。しかし、「思慮分別」に従って考え抜いても簡単に答えが出ない事が多いのも確かです。
元々不完全な人間が作り上げた尺度では対応できない、言葉で説明できない事象が、まだまだ世界には多く存在します。
私達が持っている「現在における常識」は、現在時間に都合の良く解釈された「常識」や「思い込み」となってしまっています。そんな「現在における常識」を一旦忘れなければと言うことだと思います。
だからといって、決して「秩序を破れ」と言っている訳ではありません。私達が平和に生活していくため、先人達が築き上げたルールは敬意を払うべき尊いものです。

私達は「常識」「こうあるべき」と思っていた思考を一つ一つ払い去る事で、感覚を自由にする事ができます。
そうすることで、少しでも迷いから解放された時、自分に向かって無言で何かを訴え続けている人や植物、物など様々なメッセージが見えてくるかもしれません。

「昔からそうだから」という「常識」。
「こうあるべき」という自分の思い込み。
「定型的な言葉」など。

生活が便利になり、合理的なルールが整備されるに従って、私達の日常生活は知らず知らずのうちに「ルーティン化」し、大切な事が覆い隠されてしまっている。
そんな時代だからこそ「可能性を狭めてしまう常識」は耳や目でとらえるのではなく「心」で感じ取る事ができない。

私はこのように考えますが、このはなし皆さんはどう思いますか?
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