被災者になった日

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こんばんは!なおみち♪です。
鹿児島出身の私は、大学6年間を熊本で過ごしました。
郷土愛の強い私は、いやいや、鹿児島と熊本の都会具合なんて変わらんよ?肥後もっこすも薩摩隼人の前ではひれ伏すのみよ?と思っていました。
先月、訳あって大学時代の同級生での集まりに参加するために久しぶりに熊本に行きました。

いやーー!!都会!!!
数年ぶりの熊本は、驚くほど栄えていました。コロナ不況とは?
何もなかった熊本駅は、今ではなんでもある熊本駅に様変わり。風情のある市電に揺られ、街の中心街へ向かうと右も左もビルに大型ショッピングモール。
あれれ、鹿児島負けてない、、?笑

いやいや、大事ことは都会かどうか、便利かどうかよりも過ごしやすさと人の暖かさ。その点についての鹿児島vs熊本は結果、、、


ドロー


どちらも素晴らしい人達で溢れ、過ごしやすい最高の県です。
夜は馬刺しと米焼酎を堪能しました!

さて、4月14日で熊本地震から6年が経ちました。当時私は大学5年生であり研究室に学生実習にバイトに飲み会に慌ただしい毎日を過ごしていました。

前震のときはランニングをしていました。どーーーんって音がした後に電柱や建物がぐわんぐわんと揺れ、数秒思考停止に陥りました。
近くにいた他人と顔を合わせ、みんな自宅へと走りました。
アパートに着くと、大家さんと住民が皆下に集まっておりました。
今思えば恐ろしいですが、汗だくの私は大家さんの制止を振り切り部屋に戻り、ささっとシャワーを浴びて再度避しました。笑
古いアパートでしたが幸運にも造りがしっかりしていたのか、家の中はほとんど被害がありませんでした。
結局その日は当時自宅で過ごし、翌日からは大学の清掃をおこないました。

このまま少しずつ復興していくと思っておりました。今では当たり前の言葉として普及している前震、本震も、当時知る者はほとんどいませんでした。

4月16日の夜中、再び、それは2日前よりも明らかに大規模に揺れました。
そのときは毛布を頭にかぶって頭を守りながら揺れが落ち着くのを待っていた記憶があります。
前震でさえ震度6強あって凄まじかったのですが、本震のそれは全くレベルが違いました。部屋中の家具は崩れコンクリートの地面も歪み、倒壊したマンションアパートも少なくありませんでした。
その日は近所の大型スーパーの駐車場でタオルケット1枚で過ごしました。

スーパーコンビニからは食品や飲み物が消え、大学の体育館は避難所へと変わりました。幸運にも付き合いのあった同郷の先輩に声をかけていただき、実家の鹿児島に一緒に帰ることができました。新幹線も高速道路も停止されていたため、下道で約半日かけて避難しました。同級生には、県外に帰る選択肢があるにも関わらず大学に残り率先して避難者の対応をしている人もいました。
鹿児島に入った時、ふとその友達の顔が浮かび、自分だけ逃げた気がして気付いたら涙が止まりませんでした。
自分の生活を後回しにして人助けをする強さが私にはありませんでした。
今でもその時の悔しさ情けなさが、私の心の中に残っています。

現在私は薬剤師として働いております。もし何かしらの災害があった時、前線で医療を提供することになるかもしれません。その時私には、もしかしたら守るべき家族がいるかもしれません。

熊本地震の時の経験を生かして、自分の職務、家族を守るように精一杯立ち向かう覚悟です。

災害時人間は様々な本性を表します。強盗や、女性子供に対する犯罪も悲しいことに起こります。
それでも私は、被災者のために無料で炊き出しを提供した飲食店、無料で開放した温泉施設を知っています。
揺れて、一度列を乱しても落ち着いた後ちゃんと再整列したコンビニでのお客さんを知っています。
人の優しさにもたくさん触れてきました。

人は一人では生きていけません。助け合うことの大切さ、また何気ない日常の素晴らしさに気付ける機会となりました。
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