支援者にこそ、支援の手を

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みなさん、こんにちは。
あなたのこころの秘密基地、Shuureiです。

先週、全国的に梅雨入りとなったようですね。
毎年のことながら、じめじめとした憂鬱な季節となりました。
でも、今年はなんだか空気の湿り具合が軽い気がしませんか?
土地柄にもよるのかとは思いますが、なんとなく息苦しさを感じるような湿り気が少ない気がするんですよね。
平年より遅い梅雨入りということなので、まだまだこれからということなんでしょうね・・・。
きっと、ある朝目が覚めたら「あっつぅぅぅう!」みたいなことになるのかなと(笑)

さて、今回は自戒も込めて、ちょっと厳しいお話を。



「障害児の親ってさ、やっぱりちょっと変だよね」

これ、聞いたことないですか?
もしくは、思ったことないですか?

このセリフ、特に自閉傾向のある子の親に向けられることが多いです。
私は、子どもの頃から何度となく聞いてきました。
私の弟はダウン症なので、
「自閉症の子の親って、ちょっと変な人多いよね」
って、同じダウン症を持つ子の親までがいうんですよ。


我が子は自閉症スペクトラム。
つまり、自閉症へと繋がる連続体ということなので、自閉的傾向があるわけです。
社会性の欠如、コミュニケーションの支援が必要なんですよね。

どういうことが起こるかというと、相手の立場に立って話をするということが苦手なので、往々にして人を不快にします。
体は大きくなっても、脳の発達が未熟なために利己的な行動が目立ちます。
強迫観念によって、他人にも規則やルールの徹底を強いることも。
予想外の展開に対応できず、パニックを起こします。
そうなったら、暴力、暴言、もうなんでも飛び出ます。
学校や世間での人とのトラブルなんて日常茶飯事です。
我が子にたくさんの支援が必要だったころは、問題が起こるたびに、それはもう毎日のように学校に呼び出され、頭を下げまくりです。
誰かに害を及ぼしてしまうこともしばしば。
相手のお子さんにまったく非がないことなんてほとんどないのですが、それでも電話をし、時には家まで行き、ひたすら謝る日々です。

時には、勘弁してくれよと、思うのです。
時には、許してくれよと、思ってしまうのです。

そして、心身ともに疲弊すると、思考がどんどんおかしな方向へ行ってしまうんですよね。
気がつくと、こう思っています。

脳の発達が未熟なんだからさ、みんなと同じようにがまんができないのよ。
ちょっかいださないで、優しく見守ってよ。
ちょっとは理解してよ。

そして、次はこうなります。

しかたないじゃない。

これ、実はとても危険な考え方だと思うんです。
「しかたないじゃない」は、自分の身を守るためのいいわけですよね。
疲れ切ってしまった、頑張れなくなった自分を肯定するための。
その証拠に、このあとどうなっていくかというと、

許してくれたっていいじゃない。
どうしようもないのよ。

となり、最後には、

「許されるのが当然」

と思うようになってしまっているんですよね。
もう、無意識で許されるのを待つようになってしまいます。

これが、「ちょっと変だよね」といわれてしまうからくりだと思うのです。

人は、あまりに追い詰められたり逃げ場がなくなってしまうと、まともな思考力を保つことができません。

もう、本能で守りの体制に入ってしまうんだと思うんです。
「ちょっと変」なのではなくて、「心身のゆとり」がまったくなくなってしまったんだと思います。

また、この負荷による心身の許容量は人によって違うので、だいぶ変だと思われる人と、まだまともだと思われる人がいるんだと思います。

「障害者(児)」とは、

身体・知的・精神の障害によって、日常的または社会的に相当な制限を受けている人のことをいいます。

そう、社会生活をする上で、肉体的、精神的に相当な制限を受けているんです。
相当な制限を受けている状態なのに、社会では制限のない人と同じようにふるまわなければいけないんですよね。
でも、それ、かなり難しいことなんですよ。
というより、「無理」な時期が結構あるのです。
つまり、一番身近にいる支援者は、その溝を一生懸命埋めて回っている感じなのです。
障害のない方と釣り合うように、足りない部分をずっと繋ぎながら生きているわけです。
何年も。
人によっては何十年も。

そりゃ、勘弁してくれよ、という気持ちにもなりますよね。

私も、何度も何度もそう思いました。
「許されるべきでしょ」と明確に思っていたわけではありませんが、そういう態度を取っていたこともあるはずです。
だって、もう逃げたしたいなんて軽い思いじゃなくて、早く死んでしまいたいとすら思っていて、下の子のお迎えにいった幼稚園で、園児に水をかけられたことでパニックを起こした我が子を見つめながら

「誰か何とかしてよ」

なんて、立ち尽くしていただけのこともあるんですよ。
でもね、それでも、やっぱりダメなことはダメなんですよね。
どんな理由があっても命の危険がない限り、人に危害は加えてはいけないんですよ。
公共の場では、個人個人が安全に留意しなければならないし、マナーを守って生きなければならないんですよね。
障害があるから許されることではないんですよね。

だって、障害があっても人権は守りたいし、親としては、本人が望む限りはほかのお子さんと差別されることなく生活させたいんですもの。
社会の構成員の一人として、存在しているわけですから。


私が子供の頃に、こんなことがありました。
その頃住んでいた家は、駅からの帰り道におもちゃ屋さんがあったんです。
確か、弟が通っていた養護学校(今は特別支援学校といいます)からの帰りだったと思います。
弟はそのおもちゃ屋さんのショウウィンドウに飾られていたおもちゃが欲しくて駄々をこねます。
でも、その日はおもちゃを買う日ではなかったので(学校の帰りには買わないと約束しています)、母は帰るよう促します。
がまんができない弟は、その場にひっくり返って泣き出すわけです。
でも、買わないと決めたら買ってはいけないんですよね。
しつこくすれば買ってもらえる、泣けば自分の望みが叶うということを教えてはいけないのは、定型発達児の育児でも同じなはずです。
ところが、そこに寄ってきたおばさんがいいました。

「こんな不憫な子になんていじわるなことをするの」

弟は、もうそのとき、欲求をがまんできないような年齢ではなかったのですが、やはりあきらめをつけるまでに相当の時間が必要だったんです。
でも、それは、本人が訓練して身につけていかなければならないことなわけです。
私は子ども心に、無責任な人だなと思ったのを覚えています。
また、あの時はわかりませんでしたが、そういわれた母の心は切なかったろうなと思います。
本当は買ってあげたかったはずです。
苦しい思いなどさせずに、喜ばせてあげたかったと思います。
でも、弟の将来を考えたら、心を鬼にするしかないわけです。

これは障害のあるなしに関わらないけれど、やはり困難があればあるほど、子育てにはこうしたことがたくさん起こります。
それでも、ふんばって頑張りぬいた先には、やっぱり明るい未来が待っているんですよ。

だからこそ思う。

支援者にこそ、支援が必要なのだと。

でも、現実は、障害のある子どもへの支援もままならないことも多く、支援者に対する支援は、物理的にも、意識的にも、もっともっと足りていないんです。

障害児を育てること。
せっかく経験させてもらえたことだから、その恩恵を次の誰かに送れたらいいなと思います。
私ができることなど本当に知れていると思うけれど、少しでもそんな支援の一端を担えればなと思っています。

アドバイスを望む方には、私の経験から得たことを、そんなことより処理しきれない苦しさと疲労を抱えていらっしゃる方には傾聴を。
よろしければお電話ください。

とっても長くなってしまいました^^;
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました♪
あなたのこれからが、心穏やかでありますように☆
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