母ひとり子ひとり④

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コラム

登園拒否

息子に腹いっぱい食事を与える。
ひとりの親としてトシコができるのは、それだけだった。
母ひとり子ひとりの生活では、そんなトシコを足りない部分を補ってくれる人はいない。
次々と日常生活の至る所で、ほころびが出始める。

その、ほころびは教育や躾では分かり易い形で現れた。
年中から年長に上がる時に、私がそれまで通っていた、少し離れた保育園から、近くの保育園に移ることになった。
仕事と家事の両立で忙しかったトシコが、わざわざ遠くの保育園に私を通わせていたのには理由があった。
それは0歳保育と延長保育があったことだった。
5歳になったことで、その縛りが無くなり、ちょうど空きができたことも重なり、市役所から「転園できるが、どうしますか?」と連絡があったらしい。
どこまで深く考えていたのかは解らないが、トシコは“生まれてから、ずっと通っていた保育園を移る”という決断を、“送り迎えが楽になるから”という理由で決めてしまう。

私は新しい保育園に馴染むことができなかった。
ひとりで子育てをしていたトシコを見て育ち、ひとりでトシコの帰りを待っていた私は、そのコニュニティーに馴染もうとする努力の必要性を、知る機会がないまま、この時を迎えてしまった。
ゆえに、友達を作るということ自体が、私にとっては未知のものだった。

そんな私が友達作りに挑戦しようと思えない決定的な理由があった。
それは、私が圧倒的な肥満児だったことだ。
40代後半になった今でも思うことがある。
未就学児や小学校の低学年の子供は、この世でいちばん正直で残酷だ。
思った事をなんでも口にする。
想像してみてほしい。
もしも、年長になった時、他所の園から移ってきた子が、今まで見たこともないような肥満児だったら…
空気を読む、言われた人の気持ちを考える、そんな能力を身に付ける前の子供なら、私の事を好奇の目で見るのは致し方ないことだろう。

園のすべり台に尻がハマって滑れないのが嫌だった。
宇宙戦艦ヤマトにあわせてやる乾布摩擦で、上半身裸になるのが嫌だった。
何より太っている事を、いじられたり、バカにされるのが嫌だった。

あとはお決まりのコース。
朝、行きたくないと駄々をこねる。
トシコには、行きたくないという息子に、保育園に行く意義を理解させるような能力がなかった。
できるのは、引っ叩くことだけだった。
平手が飛ぶ。
「行く」と言うまで叩かれる。
「泣くな」と言って叩かれる。
叩かれるのが嫌で、しばらくはおとなしく登園するが、行きたくない理由がなくなった訳ではない。
しばらくすると、また「行きたくない」となってしまう。

何度かそれを繰り返すと、トシコも少しは知恵を絞る。
団地には一軒にひとつ倉庫がついていた。
その倉庫にしばらくの間、私を閉じ込めておくのだ。
どのくらいの時間、閉じ込められていたのかは覚えてないが、時間や季節を間違えば、不慮の事故が起きてもおかしくない荒っぽい方法だ。
泣き叫ぶ私の腕をつかみ、ズルズルと引きずりながら倉庫の中に押し込むトシコ。
閉じ込められた私は、暗闇の中で、いつ開くのか解らない扉に向かって泣き叫ぶ。
しばらくして、泣き叫ぶ事の無意味さを理解する。
泣き疲れて、諦めて、しばらくすると扉が開く。
まだ怒っているトシコ。
それ以上の抵抗は無意味だと悟り、園に行く事を了承する。

そんなやりとりを何度か繰り返すと、今度は私が知恵を絞る。
おとなしく保育園に行き、トシコが帰っていくのを見送った後、その後ろをスタスタと歩いて家まで帰る。
決して短くはない道のりを、保育園に行きたくない一心で歩いて帰る。
登園した園児が勝手に家に帰ってしまうなんて、今の時代なら大問題になるだろう。
家に付き、しれっと「ただいま」と言ってのける。
さらには、保育園に送っていく時間になると、自らの足で倉庫に入りに行く。
最終的に、この扉は開くのだと学習した私にとって、もはや暗闇は怖くはなかった。

次はトシコのターンだが、トシコは何もしなかった。
良い方法が見つからなかったのかもしれない。
日々の行かせようとする労力に疲れてしまったのかもしれない。
もしかしたら、転園を決めた時のように、送り迎えが楽になると思ったのかもしれない。
結局、小学校入学まで保育園に行く事は無かった。

不登園になった私は、毎日朝から教育テレビを観るのが日課になっていた。
トシコは居るが、トシコと過ごしてはいなかった。
幼心に、自分がわがままを言っているのは理解していた。
だから、なんとなくトシコの手を煩わせないのが、自分の中で暗黙の了解になっていた。
トシコに子供を教育できるような能力はなかったし、家事と仮眠で、それをしようとする時間もなかった。
世間から見れば、大いに問題のある生活だが、ふたりの間では問題のない毎日が過ぎていった。

後から聞いた話だが、トシコなりに、私の将来は心配していたようだ。
保育園に行けなくなった延長で、小学校も不登校になったら、私の人生が詰むと思っていたらしい。
私の事を思うなら、無理やり行かせるのではなく、行きたくないという気持ちに寄り添ってほしかった。
今更云っても仕方がないが…

だが、私にとって、この不登園の一年が、後の小学校での生活を乗り切る為に必要不可欠な一年になる。
行きたくないから行かなかった。
行かせる方法が無いから行かせなかった。
そんな短絡的な理由で物事を決めていた、当時の母子には知る由もないことだが。

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