母ひとり子ひとり①

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それが当たり前だった

物心がついても、それを不思議だとは思わなかった。
自分の家族は母親だけで、父親がいないことを、おかしいとは思ったことは無かった。
ネコがいて犬がいる。
それと同じような感覚で、両親がいる家庭もあれば、片親の家庭もある。
私にとっては、その程度の違いで、それが当たり前のことだった。

私の母トシコは母子家庭であることを、当たり前だと思っていたのだろうか。
昭和50年
まだ、女性が社会に出ることが、当たり前では無かった時代。
サザエさんでもドラえもんでも、お父さんが稼ぎ、お母さんは家事をする。
それが当たり前の時代に、父親であり母親でもある、そんな生き方をトシコは選択した。
並々ならぬ決意で私を育てていくことを決めたのか、はたまた、適当にどうにかなるだろうと決めたのか…
今となっては確認のしようもない。

トシコは新聞配達の仕事をしていた。
当時の新聞配達は、朝刊と夕刊の二回配達。
朝刊は夜中の2時ぐらいに出勤をして、夜が明けるまでに新聞を配達し、夕刊は昼すぎに出勤して夕方までに配達をする。
また、新聞代は銀行振り込みではなかったので、配達員が一軒一軒集金にまわっていた。
夕刊の配達前には翌日の朝刊に入れるチラシの準備をするオリコミ当番という業務もあった。
これらの業務をすべてこなすと、親子が暮らすのに十分な金額を稼ぐことができた。
昼も夜もない過酷な仕事だが、学もなく、特別な技術もなく、資格もないトシコが、私を育てる術として、新聞配達をする以外の選択肢は無かったのかもしれない。

トシコが仕事から帰ってくるまで、私は家で留守番をしていた。
家でひとり待っているのは当たり前だった。
淋しいと駄々をこねても、トシコを困らせるだけだと分かっていたし、言ったところで、どうにもならない事は、よく分かっていた。
幼少の私は幼いながらも、働きながら子供を育てるという事の大変さを、肌身で感じていた。

私は父親がいればと思った事は無かった。
ひとりが淋しいと感じる事も無かった。
ただ憧れているシチュエーションがあったようだ。
私はすっかり忘れていたが、ある時トシコが苦笑いしながら話してくれた。

私は生まれた時から県営の団地に住んでいた。
同じ階には同い年のタカちゃんという幼馴染が住んでいた。
時々、母親が仕事から帰ってくるまで、タカちゃんの家に遊びに行くことがあった。

小学校からタカちゃんと一緒に団地まで帰ってきて、タカちゃんが「ただいま」と玄関を開けると、奥から「おかえりなさい」と声がする。
私は「じゃ、後でね」と声をかけて、自分の家の玄関を無言で開ける。
タカちゃんと遊んで家にもどり、帰ってきたトシコに、私はこんな事を言ったそうだ。
「どうしてタカちゃんちは帰ってくると、お母さんが“おかえり”って言ってくれるのに、うちは違うの?」
「あの時は、そう言われて、なんて答えていいか解らなかったわ…」とトシコは言った。
その言葉から、父親がいない事に対して、トシコは負い目を感じているのだと感じた。

その話を聞いてから、私は父親がいないことで生じる不利益を口にするのはやめた。

当時の私にとってトシコの存在は絶対だったからだ。
私を育てる為に、昼も夜も無く働くトシコを尊敬していた。
トシコからは“片親だから”と、周りから後ろ指を指されないように立派に育てなければという決意のようなものを感じていた。
そんなトシコを困らせるような事を言うことが悪の様に感じていた。

“お互いがお互いを想う”
あの頃の私とトシコには、家族として当たり前の愛情が確かにあった。

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