「ツインレイは光と闇を超越する」と言う話は“光VS闇=どっちか1つ”ではなく、「光と闇は対等であり、2つで1つ」と言う意味なのかな?と改めて考えてみました。

記事
コラム
まず、コインの表と裏は消えないのです。
悪があるから善なのか、善があるから悪なのか。
https://coconala.com/blogs/2997019/356547

コインの表と裏は消えない。

光を手に入れるために闇を否定(または排除)すると、そもそもの欲しかった光も消滅する。と言う話もありました。


この世は陰陽でできているのです。
光と闇
男と女
ポジティブとネガティブ
良いと悪い
プラスとマイナス
勝つと負ける

例えば、
分離と統合
追うと追われる
とか、二元性の意味をもたらすキーワードもここに含まれるようです。


で、だいたい人はどっちかを排除しようとするのです。
光だけ、ポジティブだけ欲しい。みたいな。

そのどちらか一方だけが起こるのが素晴らしくて幸せと考える思考の偏りそのものが“エゴ”らしいです。
「己に都合の良い事が起きるのが幸せで素晴らしいと考えるその偏りが、“エゴ”」と、言う話もあるみたいです。
https://coconala.com/blogs/2997019/377271

まぁ、確かにこれでは「良い悪いを己に都合よくジャッジしているだけ」と言うところからは抜けていないのかもしれません。
ポジティブだけもてはやして、ネガティブは手放しましょう。みたいなところもありますもんね。

そうやって、

 自分に都合のいい状態(ポジティブ、快、喜・楽)だけ欲しい。
 自分が感じたくない感情(ネガティブ、不快、怒・悲)は避けたい。

とでも言うような「思考の偏りそのもの」が「エゴ」と言うことですかね?


まぁ、私に説明させるとこうなります。
「あなたが“世界の平和を願う”と言う経験をするため」には、世界が平和だったら困るでしょ。
https://coconala.com/blogs/2997019/383469

わかりやすく言ってみました。


***

私の7人目のツインフレームの彼女は、
「善悪二元論から二元性へ概念をアップデートすること」と言いました。
彼女の渾身のなっがい文章をまぁまぁ持ってきました。
こう言う説明は彼女の方が得意だからです。

引用で持ってきましたが途中の【図】は略しました。

善悪二元論とは

善悪二元論とは、善と悪により分類し、悪を排他する意識のことである。


この意識は必ず『自分が善』であり『他人が悪』である。

もし、自分が悪い人間をやる! としたときも「それを選択する自分は善」である。

ほかにも、人の悪を背負うことも「人の悪を背負う自分が善」であり、いかに『悪』になろうとしても、私たちは『自分を善』としてしか生かすことができない。

どんなに悪いことをしたとしても、人は『自分を善』とし、過去に悪いことをしてしまったことに対して「あのときは悪い子だった」等の発言があるときも、自分を悪とはせず悪い自分を解離させることで自分を善に保つようにしている。

つまり、私たち人間は常に『善』でしかない。悪い人間はどこにもいないといえるが、常に人は『自分を肯定的な存在にしか構築することができない』ということだ。

私たちは『自分が思う善の道を進む』ことになるのが人であり、いかなる悪人であれども、自分の悪は解離させ、悪を体現しているときも自らは善として捉えているのが人である。また、私たちが人を『悪』だと思う意識も、人の主観によって違い、この善悪の概念は個人によって違う。


特徴として、善悪二元論は『悪を創りつづける』ことにあり『自分は善』であること。その悪の定義は人それぞれ違い、悪を忌むところがある。

人に悪を見つけては「あのような人間にはなりたくない」と思うのが私たちのなかに存在する善悪二元論的な思想である。また、これが人の本質にある。

「あいつは悪い人間だ」と言っているやつが『悪い人間である』というような構造も生まれたりする。

善悪二元論の過程で学習することは、社会のルールや法則、他者という存在である。情操を学ぶ段階が『善悪二元論』である。


ちなみに善悪二元論が『悪い』っていうわけではない、若い考え方だとは思う。そして人の在り方だとも思う。

人は必ず自分と他人による葛藤を生む。この葛藤そのものが善悪二元論状態へ陥る。
~中略~
二元性とは

二元性とはふたつを循環させるような思想になる。このふたつは『善悪』としてひとつを悪として排他させない構造をとる。


私たちの概念そのものは『二分化』されることは免れない。理由だが私たちは物質という肉体を持っているがゆえに、他人という概念を捨て去ることができない。

他人の肉体を『自分の肉体だから使ってもいい』とはならないかと思う。他人の肉体は他人にしか動かすことができない。では自分の肉体ではない他人は悪である——とはならないが、善悪二元論だとそうなってしまう。

自分の思い通りにならない存在は悪である——、と。

しかし、他者と自分が共存するような視点を持つことができるのが二元性にある。男性性と女性性などがわかりやすいかもしれない。


別の存在だが『共存』することができる。これが二元性である。『自分のなかに存在する異性性を受け入れる』ことにより二元性は成立し、『自分のなかに存在する異性性を排除する』ことにより善悪二元論は成立する。

しかし私たちは確かに『異性ではないという事実』が存在している。

これは概念であり、事実ではない。しかし、この概念という精神構造が常に私たちの世界へ影響を及ぼしている。
~中略~
二元性による分離とは

二元性による分離とは、従来、相容れることがないものを『相容れる存在として分離させることができる』ということだ。

善悪二元論の時には理性によって『嫌いなものを自己のなかから排除する』ことになるが、二元性の段階では自らのなかに嫌いなものが存在していない・理性によって抑圧していない段階によって分離させていくことになる。

自分を補ってくれる存在を分離させていく状態になる。

やりたくないことは「やらない」し、やりたいことを「やる」。が徹底されていくと、最終的に「やりたいくないこと」が分離していく。やりたいことだけが自分のなかに残るということだ。

やりたくないことが外部に発生しているが、それが「他人がやってくれること」になる。二元性による分離とは『補い合い』により生じ、補い合うときに『できる』『できない』ではなく『やりたい』『やりたくない』という分離になっていくため、より相手を受け入れやすくなる。

やりたくないことをやってくれる存在がそこにいてくれることになるからだ。


二元性とは『共存』であり『補い合い』になっていく。


だから、意図的に片方を排除する。みたいな話じゃないと思うんですよ。
と言うか、己の闇そのものがツインレイの相手である。とでも言うか。

で、業界としては、
己と向き合いましょう。
ありのままを受け入れましょう。
自分を愛しましょう。

なのです。


ね、わかりますか。

私は正義の味方になります! とか。
何かを勘違いした末に、あいつが偽物だったんです。とか。
私にはもう悪は存在しません。とか。

そう言う話じゃないと思うんですよ。


また、じゃぁ「ありのままを受け入れた私は“0”=中庸=真ん中」です。
「己に偏りは存在しません」
みたいな主張をしてくる場合もあります。

私は、これではそれ以上の成長は望めないんじゃないかと感じてしまいます。

「宇宙は今でも拡大を続けている」と言った話をどこかで見つけたこともあるような気がします。

現状維持は衰退なのです。

「怖いものは怖い」感情に蓋をしなくていい。否定しなくていい。認めてあげるといずれ落ち着く。
https://coconala.com/blogs/2997019/380207

当時、私は怖かったのです。
「怖いのだ」と言いました。
その女性は言いました。
「“怖いものは怖い”感情に蓋をしなくていい。否定しなくていい。認めてあげるといずれ落ち着く」

...

同じところをぐるぐる回っているような気分でもありました。
とても幸せなのに、一方でその幸せを台無しにするようなことを考えてしまうのです。
そんなこと考えたくないのに。
とても幸せなのに、次の瞬間死神がやってきて断罪されるのか。と、私はそんな気分なのです。

どうにも同じところから抜け出せない。
だけどそんな時「自分を愛するとは……自分に成長のチャンスを与えたか」とそんな一文も目にしました。


***

あ、大丈夫ですよ。
「善悪二元論から二元性へ概念をアップデートすること」とか記事を書いていた私の7人目のツインフレームの彼女ですら、理解が足りなくて、そのあとの記事でこんなことを言い出したぐらいです。
「先に喧嘩を売る、あえてわざわざ嫌なことに向かって行く必要はないでしょ」と人は言いたがりますけど、それって(例えば)繊細さんも一緒ですよね。
https://coconala.com/blogs/2997019/388290

―引用――
それが『闇の刺客』だった。

自己中心的であり、自分勝手で、自分の思うとおりにならなければ腹を立て。嫌な奴は悪意を持って排除する。傷つきやすく自分がしたことをやり返されると盲目的に思い込んでは先んじて嫌がらせをする。風評被害をもたらし、他者へ迷惑をかける。おせっせしたさに不倫を繰り返しては人のものを奪う。

―引用終わり――

...

基準は自分なのです。
それが自分にとって傷つくなら、優しい世界であって欲しい。と、何かを排除しようとするのです。
この世の人でなしを非難して「こう言うのはよくないと思います」と、そいつの風評被害をもたらすのです。
だけど、自分にとって害のないものでもめている、または自分にとっていいものが責められているのを見ると「どうしてわざわざ喧嘩を売るような真似をするのかしら?」と、言い出すのです。

わかりますか?
これが1人の人間の中で起きているのです。
相手も同じなんですよ?
事柄が違うだけ。

つまり、自分勝手です。

***

彼女としては「もう悪さしない」とか言っていますけど。そうじゃないのです。
己がそのものでもあるのです。
まだ自覚が足りないのかもしれません。

ま、「己が闇そのものでもある」と言うのは、なかなかに受け入れがたいのかもしれません。


1か0か。と言う話ではないのです。


「0であり、すべて」

そして、
それは「2つで1つ」なのです。

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