自分の感覚に従う

記事
学び
わたしが最初に自分の感覚を信じたのは小学生のころでした。
当時、悩みが多かった母親は、救いを求め、とある宗教に入信しました。
そして、兄弟の中でなぜかわたしだけ毎週のように集会に連れていかれていました。

そのころは深く考えることもなく親についていっていただけだったのですが、親はわたしがとても信心深い子どもだと思って、すぐに家庭教師をつけました。

つまり、宣教師がわたしの家に来て神様の教えを説いてくれるということです。わたしは特に拒否はしませんでした。好きでもなかったのですが、嫌いでもなかったからです。

教えにきてくれたのは温和で、優しい若い男の先生でした。
先生は家に来ると、さっそく、さし絵がついたテキストをみせてくれました。
そのさし絵には、自然豊かな楽園で人々が楽しそうにピクニックをしている光景が映っていました。

先生は言いました。
「どう?神の国に入ったらこんな風に素晴らしい楽園で毎日生活できるんだよ。」

それは素晴らしい、とわたしも思いました。

しかし、その楽園に入るには神を信じなければならない、と先生は言いました。そこでわたしは

「信じれば誰でも入れるのですか?」
と聞くと
「いや、コップに水がいっぱいになったら注ぐを止めるように、楽園に行ける人数も限られているのです。だから一生懸命神様の勉強をしなければならないのです」

その時わたしは心のなかで「そんなの絶対おかしい!」と思いました。
それじゃあ神を信じていてもあぶれる人が出てくるってことじゃないか!!

でも内気なわたしは先生に向かって「それは違うと思います」とは言えずに、トイレに行ってくるといって外に飛び出しました。

それから何度か宣教師の先生は家に来てくれましたが、わたしは不信感が大きくなり、何かと理由をつけては断りました。

その時、わたしの感覚は「この人は良い人だけど、盲目的にみえる。話を聞いてはいけない」と警鐘を鳴らしていました。

ただ、それからもわたしはしばらく集会所について行きました。そこで「これはおかしいな」と思ったことがいくつかありました。

例えば、どうやったら神の国に入れるのか?という具体的なことが分からなかったこと。
誰に聞いても、ただ「信じなさい」としか教えてくれません。
いつ、どうやって神の国に入れるのか?
死んだあと?天使か何かが降りてきて連れていってくれる?
神様に「合格」と言われないといけない?
さっぱり分かりませんでした。

それと、信者の人が家を訪問しときに、物を投げられ追い返された話が美談になって語られていたこと。「どんなに追い返されそうとも宣教する姿」が素晴らしいのだとか。確かにくじけない姿は素晴らしいかもしれませんが、家の人は迷惑じゃないのかな?そのことを考えているのかな?と思っていました。

更にいえば、貧しい暮らしを暗黙で推奨していることも不思議でした。
貧しくても神の恵みがあれば生きていける、というのは良いけど、豊かで更に神の恵みがあったらもっといいんじゃないかなぁと思いました。

それから次第にわたしは集会にも行かなくなりました。

その後に一度だけ、母親にどうしてもといわれて野外集会というものに参加したのが最後です。

そのときわたしが見たものは、
みんなが自然豊かな広場でお弁当を持ち寄って楽しくピクニックをしている光景、
つまり先生が見せてくれたさし絵のような楽園がそこにあったのです。

ただ、参加している人が誰1人として、そのことに気が付いてないことがショックでした。
あの世とか未来とかではなく、今ここに楽園があるのに誰も気が付いていないなんて!

そのときに、初めてはっきり「自分の感覚に従おう」と決意したのです。
それから何か人生の岐路に立つと「自分はどう感じているか?」で判断するようになりました。

その為に親が推奨するような道は歩けなかったけど、納得できる歩き方ができて今があるのではないか?と思います。

琥珀流

サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す