最近は下火だと感じていますが、非二元(ノン・デュアリティ)の世界観の中でよく『私はいない』と言われていると思います。
頼まれていませんが、僕の感じていること・考えていることを書いてみたいと思います。なので寝言を書いているなと軽く捉えてもらえれば嬉しいです。
私がいないとすれば、実際に見たり聞いたり感じたりしてるものは、エゴだと言いたいのかなと考えています。
エゴには実体はない、ただの概念であると言えると考えています。
同じことで時間も概念なので、時間がないとも言いますよね。
何が言いたいかというと、私の体、私の思考などと言っているのがエゴであれば、
私はいないとなります。
その説明で以前、人間の体は半分以上は水分だと言われていますが、ペットボトルの水を飲んだ時、その水はどこから私に変わりますかと聞かれたことがあります。
そんなこと考えさせるから、迷ってしまうと感じているので、本や動画から得た知識は一旦横に置いておいた方が進むと思います。
非二元の方たちが楽になったと言っているのは、エゴが良い・悪いとかを区別してしまっている、もともと無いものをあると言って苦しんでいる。
エゴからの視点で、今まであると思っていたものは全部無かったという訳です。
つまり僕たちは最初から生まれてすらいなかったのです(笑)
じゃあ私はいないのですか?と聞かれたら、僕はいますと答えます。
本当の私は概念や思考を超えた存在です。
呼吸を感じようと考えた時、そこに呼吸を感じようと考えた私がいます。
時計を見ようと考えた時、そこに時計を見ようと考えた私が居ます。
今、寝言書いているなと考えている私がそこにいます(笑)
常に私がいるけど、意識を向けないから気づかないだけです。
エゴと一体化して(睡眠中)、寝ぼけて認識できていない、この私に気づくことを目を覚ますとか覚醒とか言われています。
禅では見性と言って最初の悟りの段階のことを指します。
”私”はどこにもいないけど、どこにでもいる。
それに気付くことが、寝ていることから目を覚ます事であります。
覚醒をしたいと探究の旅に出て行って、ずっと扉を探していたら、最初から扉の前に立っていた、しかも開いていた事に気がつくのです。
ただ真っ暗なので目が慣れるまではよくみえないことはあるとは思いますが、
根気よく続けていればみえてくるようになります。
思考の中で探しているうちは旅に出ています、思考の出どころに意識を向けてみてください。
上手くまとまらなかった気がしますが、まぁ寝起きなので良しとします。