直感程度というか感覚というところなので、まだまとまっているわけではないです。今回はAIって多分道具やツールであると。シンギュラリティが来るかは一旦否定的なのですがそれはまだ来てないと。その上で、AIを使うとどうなったか。少しだけ考えてみます。
AIは飛び級制度に近い
AIを前よりは使っているのですが、そこでやり取りをして考えていく。ふと思ったのですが、AIのアウトプットをそのまま使うことを批判しまくりましたが、僕も使っている面があるんですよね(笑)矛盾していると。
ではそこにどう説明をつけるかですが、ここでは依頼者がいて何かそれに対して思考のアウトプットをするのが仕事としましょう。その場合、依頼者の考えに賛同したり、欲しているところに「刺さるように」提案すればそれはありなのだろうと。一方で、これがかなり重要ですが「テキスト」出力結果を出して(AIのってことです)それを誰しもが読み取れるのか?なんですよね。つまり出来ない。
これは例えばプログラミングなんか分かりやすいですかね。例えばプログラマはAIに指示をして何かしらのコードを得られる。コードとはプログラムの命令セットみたいなものです。それがプログラマである人は、そのコードの意味も分かる(レベルはそれぞれですけどね)。ってことが成り立つんですよね。では、プログラマではないプログラミングを全く知らない人がそれを見たら「???」ですよね。わからない。
ここが意味しているのは何度も言われていますが「分かる人がAIを使えば加速するが、そうでない人が使えば加速は起こり得ない」んですね。だから、そうではない人が使えないのではなく、そこでのAIは学習ツールになるかなと。
これ多分図解できますが、また今度にでも。ここにおいて、人のレベルにおいて、優れた人は「飛び級」的に、小学3年生がいて小学6年の内容も分かる、中学も分かる。だから、制度として「中学生卒業」でいいとは多分ならないのが日本ですが、AIであればAI先生としてそれができる。つまりできる人はよりできるようになるってイメージです。
この例えは、僕が思考したり、色々やっているので、そのアウトプットを理解できる(AIのそれが適切かどうかってことですね)だけであって、そうでないなら・・・先の話と同じです。そこに自信持ってもいいのかなと。最も完成されてそれで終わるとかは全然なくてですね。
小学3年生で小学1年生くらいだとこれは大変です。ですが、ここでもAIは先生としてフォローしてくれる。メガネみたいなものです。視力弱いのでメガネかける。僕もかけてます。ってことじゃないかと。それで補えるならいいのかなと。あとは付き合い方です。人は学習できると。当然障害とか一旦無視していますが、あってもできるところはできるポジティブなイメージで見ている。
当然、嫌な話ですが悪事で使う人も出てくるわけですが、そこはもう勝手に悪事があるのでスルーしときましょう。
人が学び続けることは変わらない
この考えでいくと、人が学ぶことがなくなるとかってありえないんですね。人が使うから、AIが生きる。上の飛び級できるような優れた(違う言い方をすれば、既存制度に退屈である。同級生と話が合いづらい、または遅くてもっとやりたいと意欲がある)人はいいですよね。さらに高められる。
なのですが、仮にこの生徒が「いや、学びたくない、やりたくない」と、能力はあるのにやらないなら?それってまあ親がどうするかとかもありますが、やはりやらないと。皆に合わせて落としてもいいのでゆっくりやるよと。そういうのってめちゃくちゃありそうです。どっちが正解とかもない。
その場合、そのままで、この生徒に合わせてのAIかまたはAIを使わなくてもいいだけかもですが、それだけです。
ここからいえるのは、人が学ぶとか意欲、これをやりたいのだとか、こうしてみたらという創造、創発的なこととかがないと、AIって生きないんですよね。
生きないというか、
・意欲があれば加速してくれる、アクセラレーター。または促進するファシリテーター。
・意欲がないなら、最低限のところを補佐してくれる、日常生活支援ツールみたいな(これは文脈が違うので雑ですが)
・やりたくないことをやってくれる、便利な存在
みたいなことです。
そして、レベルに応じてです。つまり、小学3年生の生徒で月並みなレベルならそのままそのレベルだと。でも、飛び級する優れた生徒なら、それはものすごく相乗効果がある。
というわけで、
・優れた生徒A×(優れた)AI=優れた結果
・普通の生徒B×(普通)AI=普通の結果
となると。これは、また図解しますが、生徒同士の優れたと普通が数値として10点しか違わないとします。まあこの物差し自体がおかしいのですが、ここでは定性的なことを意味したいです。分かりやすくです。
AI自体は実は使い方なので、()はその使い方レベルです。AIのポテンシャルを持ち出せるかってことでは、優れた人の方が有利だってことです。これは違和感がない。
最後は、結果です。出てくる成果でもいいし、考えた量でもいい。
これが、先の10点でなく100点くらい差がでくるのでないか?
これもラフですが多分そうなると。
それを時間でいえば、同じ時間やったのに、めちゃくちゃ差が出てくる。多分AIがなくても分かる差が、より顕著になると。
だから、人が学ぶもですが、AIを学ぶもやっていく必要があるなと痛感しました。
このあたりの具体的感覚はまた書いてみます。
人の意味は意欲と、そのAIの解釈としての結果をつなぐこと
人の意味って何か。生きている意味でもいいです。AIがやってくれるじゃんって世界になりつつあるわけですから。
ここで、シンプルにやはり、何かしたい、面白い、狂気みたいなものでもいいし、楽しい面白いってことになるのかなと。好奇心ってことです。分かりやすくいえば。
そして、AI自体が出す結果もその解釈を誰がするかで意味が違うと。これは分かりますよね?AさんとBさんで、同じAI結果を見ても解釈が違う。って意味で、AIの学習って「ペアプロ」みたいに一緒に見てやったほうがいいかもと一瞬思いましたが、どうでしょうかね。既にやっているかもですが。
だから、違う人にAI結果をそのまま見せてもありだけど、そのまま見せて終わりは乱暴なのは変わらないです。そこで、出した人が説明をする、補足をする、解釈をする。そこで、伝えることが人の役割じゃないかって、まさに僕はそう感じたんですね。
この時AIに何か奪われたことはないです。学んだりやりとりとか何かないと、そこに到達できなかった。または到達が早くなったから、感動が薄れたとかでもなく、むしろ手助けがあったから、登れたとか、来れた方が強い。なんかそこはたまにズレることもあるので、ここもまた図解したいですね。
というわけで、AIは多分道具です。使う前からどうかはなくて、使い倒してどうかをやってみてはどうかって感じですね。すぐ使えないので、慣れはいるとは思いますが。