祈りや願いと礼儀作法
なぜこれほどまでに祈願や参拝、信仰や祈祷において作法が重要視されるのか、今回は考えてみたい。通常、人には神や天使、あるいは菩薩や仏、守護霊や支配霊といった存在を肉眼でみることはできないので、一部の直感的に気づく者や見えてしまう者以外は、信仰に依るほかない。あるいは居ないものとして扱う。ところで、ここを読むのは日本語を解される方がほとんどであるから、おそらく一番馴染みが深いであろう神社に限ってこれから話を進めていくのだが、八百万の神というのはわりと人間っぽいところがある。喜怒哀楽もあるし、感情面でもさほど人と変わるところはないように思う。たとえば我々が、ある特定の神さまに何か願い事をしに行ったとしよう。その願いが、多くの人たちにとって善いものだと判断なさった神が、「よし、これほどまでに善い願いを私のもとに持ってきたのだから、ここはいっちょがんばるか」と一念発起なさって、動き始められる。真剣に動いておられる方ほど、その気持ちというのは強い。さて、ところが人間というのは意外と身勝手だから、自分の願いが簡単には叶わないと感じると、別の神や仏、酷いときにはご先祖さまにまで同じお願いをしはじめる。「なんとか私の願いをかなえてほしいんです。」そうすると、(仏さまはともかく)、その他の神やご先祖も重い腰をあげて動かれる。そうすると、同じ依頼に対するダブルブッキングが起こる。このとき、はじめの神に「ほかの神にも増援を願おうと思うのだが如何」ときちんと話を通していればよいのだが、普通、人間というのはいるかいないか分からない神に対してそこまでの敬意をはらっていない。(敬意をはらわないから願いを叶えて
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