自分を愛する、大切にするって、どうやるの?セルフ・コンパッション(自分に対する慈悲の心)のロールプレイングをやってみた。

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精神疾患のゆるやかな予防を目的とした活動をしたい!と、人を勇気づけ励ませるようなプロジェクトをいろんな形で行っていますが、私自身、自己否定の癖がなかなか抜けず、断続的に悩まされております。

これまで、良い子でいなければ、とかなり抑圧的な生き方をしてきたと自覚しているんですが、うつ病から抜け出し、40代になって、もう残りの人生、好きなことをさせてくれぇぇー!!と、自分の奥にいる本来の自分がジタバタし始めたので、これからは、人が変だと思うことや、何の価値があるのか?と疑われるようなことでも、自由に発信するぞ!と、誓ったのでした。

それなら、思いっきり自分が面白いと思うこと、大切だと信じることを発信したらいいではないか、と思うんですが、これがなかなか突き抜けられない。

一朝一夕にはいかないだろう、と思ったので、とにかく一歩踏み出して、あとは走っているうちに、きっと勢いがつくだろう、と信じているんですが、なかなかアクセル全開になりません。

前職のマンションコンシェルジュの仕事を通して、自分でも驚くほど成長し、随分改善はしたものの、未だブレーキになっているものがある。

それは何なのか?と考えると、やっぱり極端な自信の欠如なんだと、自己分析で判明しました。

私は、小さな頃からずっと母から、あなたは何もできない子だから、と繰り返し言われてきました。

母自身が劣等感に苛まれた人生だったので、私が同じ思いをして心折れないように、という配慮だったんですが、料理は下手、勉強もダメ、容姿も悪い、芸術系のセンスもない、リーダーシップもない…など、全ジャンルを網羅した否定っぷりで。

これだけ刷り込まれれば、そりゃあ、人から褒められても、何か結果を出しても、自信が育たないのは納得、という部分もあるんですが。

親も一人の人間で、完璧な人間はいない。私のことを愛情を持って大切に育ててくれたことに感謝して、あとは自分で自分を変えていきたいと思っています。

このミッションをコンプリートすべく、今までいろいろ学んできたんですが、積読のセルフ・コンパッションという本に、やっと手を付けまして。

セルフ・コンパッションとは、米国のクリスティーン・ネフ准教授が提唱されている、自分の愛する人を思いやるように、自分自身を思いやる、という考え方のことです。

うつ状態になる人は、自己否定が原因という調査結果が出ているとのことで。

私は、自分との内なる対話が多いタイプの人間で、自己否定について考えてみると、人に対しては、これまでもこの先も、絶対に言わないような酷い言葉を自分にかけ続けていることを、自覚しています。

自分を認めるべし、と褒める癖をつけたり、ホ・オ・ポノ・ポノを試したり、自分なりにいろいろ研究してきましたが、長年の自己否定で、自信のなさは非常に強固になり、そのしつこさには閉口します。

今回このセルフ・コンパッションを読み始め、批判する人、批判される人、慈悲深い傍観者のロールプレイングについて知り、興味を持ちました。

自分自身を悩ませる、厳しい自己批判を生み出す問題について、上記それぞれの立場に立って考えてみよう、観察してみよう、というエクササイズです。

三つの椅子を三角形に配置し、上記三者の椅子とします。それぞれの椅子に座り変え、異なる立場に立って考えてみます。

深く思考する方で、いろんな角度から物事を考えるようにしているし、もう発見はないんじゃないか?、とも思いましたが、やってみないと有効かどうかは分からないし、もし効果があれば、自分の言葉で人に勧めることもできるしな、ととにかく試してみることにしました。

私は料理についてもコンプレックスが大きく、笑い話にしているものの、そのこじらせ具合たるや、多分人には理解してもらえないだろうな、というレベルです。

どんなふうに作っているのか見られるのが耐えられないので、人前で料理するのは絶対嫌だし、ホームパーティなどで手作り品を持ち寄りなんてのは論外。

料理の話では、恥をかきそうで恐怖で、そのテーマが終わるまで黙ってしまうという始末苦笑。

というわけで、よし、この料理に対して、この三者の意見を、改めてそれぞれの立場で考えてみよう!と思いました。

まずは、批判する人:

・料理なんて、女性ならできて当然。恥ずかしくないのか?彼にも、手間をかけて美味しい料理を作るとかできないの?女性として失格なんじゃない?

・これまできちんと生活してきたなら、料理なんて普通にできるはず。難しいことでもないのに、何でできないの?

・できないにしてもレベルがある。みんなもっと普通にできるのに。

・大人として常識が欠落している。できるようにならないと。

・もっと当たり前のことを、ちゃんとできるようにならないと。

…うぅ。読んでるだけで苦しくなってきました涙。そして、人に対してはそんなふうに思わないのに、ジェンダー・バイアスがスゴイ苦笑。価値観が古い、古過ぎる。これが自分の心の声って、恐すぎる。

次は、言いたい放題批判されている私の側面:

言われている時の自分の様子も観察するように、とのことで、想像してみると。

私は、言い返す言葉もない、全部仰る通り、と受け止めて俯いています。

どうして自分にはできないんだろう、なんでこうなんだろう?生き方を間違ってきたんだろうか、恥ずかしい…と、羞恥心に苛まれ、萎縮して小っちゃくなっています。

しかめっ面をするとか、反抗する気概も全くない感じ。

最後に、慈悲深い傍観者:

・料理が大切だとされる趣旨は、相手への細やかな心遣いや、思いやりなんじゃないかな?

・あなたは、料理は嫌いで不得手かもしれないけど、あなたは人の話を真剣に聞いて、一生懸命寄り添う姿勢があるんだから、その形が違うだけで、何も恥ずべきことなんかないと思うよ。

・料理ができないと言っても、普通にご飯を作って、きちんと食べているよね。改めて考えて、そんなに恥じるほどのことかな?

・それに、興味の方向が違う訳だから、何もかもできるように、なんて無理があるんじゃないかな?

・みんなって誰のことかな?普通にって、どんなレベルのこと?設定しているレベルが、高過ぎなんじゃないかな?

ロールプレイングを一度やっただけですが、自分に対しての慈悲の心が、いかになかったか、どれだけ酷い扱いをしてきたかを強く実感し、ビックリしました。

人に対しては、全力で慰め力づけようとするのに…。

自分自身への内なる声がけは、無意識に行っているもので、こうやって立ち止まって考えてみないと、その偏りが分からないものだなぁ、と改めて思いました。

何度も繰り返し同じ声がけをすることで、本当にそう思い込んでしまう。その影響たるや、恐ろしいものがあります。

英語を直訳したという印象の文章で、非常に読みづらいのが難点ですが、とてもためになりそうです。
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