この子は、どう生きてきた子どもなのか

記事
コラム
新聞の紙面のなかでこんな言葉を見つけた。

「死を照らし出す」

大切なことは、「なぜ亡くなったのか」と同時に、「どう生きてきた子どもなのか」ということだ。「生き方が表れていないと、死を照らしだせない」
死を照らし出すとは、亡くなったこと、命を失ったことの重大さを伝えることだ。

「生き方が表れていないと、死を照らしだせない」

子ども達が犠牲になる事件が続いている。
報道の中で、どうして亡くなったのかは伝えられる。いじめがあったり、虐待があったり。こうして原因の言葉を連ねるだけでも胸の奥が痛い。
自分が何か出来たわけでもないのに、今こうして普通に暮らせる自分が情けなく憎くなる。私はこの子たちよりはるかに多くの時間を生きることが出来たのに。

亡くなったことばかりに目を向けても、その原因を作り出した相手や許した社会を責めるばかりだ。怒りは自分に毒を盛り、触れるだけで身体を震わせ他人を罵る。自分もそこから抜け出せないでいる。

苦しさはそれだけで存在しない。そう思いたい。
どこかでしあわせな時間があったことを信じたい。
そうしないと、今こうして書いてる自分が息苦しくなる。

何を思って生きていたのか、どんな苦しさだったのか、それでもうれしいときはあったのか、その子の生きた軌跡を想いたい。


そしてこんな言葉も見つけた。

私たちに欠けているのは、知らないものについての知識のことなのではなく
知っているものを深く考える能力である。

 仏社会学者 エドガー・モラン 「科学の言葉」

「深く考える」とはどういうことか。

わからない。

でも、出来るとしたら、
「この子は、どう生きてきた子どもなのか」に目を向けることだと思う。

「私たちは数字の海に生きていない」という言葉がある。犠牲者の数だけ並べて社会を批判しても、その子を理解したことにならない。苦痛を並べ挙げて終わってしまう。情報は得ても真実にたどり着けない。

「苦しかったけど、こんなうれしいことがあった」、そんな事実を発見できれば、「そう、よかったね」「うれしかったね」と、自分も救われる。亡くなった子どもを、「今度はもっとしあわせになろうね」と送り出せる。辛い事実は変えられないが、私の憤りは少しだけどおさまる。

犠牲になった子ども達は、みんな笑顔で写真に納まっていた。この時どんなうれしいことがあったのか、見つけてあげたい。
そして、そんなしあわせがもっと続くはずだったのに。そのしあわせを奪ってしまった事実を照らし出す。これで命を失った重大さに辿り着く。


「この子は、どう生きてきた子どもなのか」

考えても亡くなった事実は変わらない。
でも、「なぜ亡くなったのか」と同じくらい大切にしたい問いかけだ。


サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す