仕事のやり方がとても雑で汚い人がいる。とても嫌だ。
止せばいいのに、職場でこんな嫌な人がいるといつもその人のことばかりを見ていた。嫌なら見なければいいのに、とにかく気になって仕方がない。
嫌なものなのに見たいという心理は不思議だ。
人間は元々、プラスとマイナスがあれば、マイナスに惹かれるものかもしれない。「どんな人にもいいところがある」と理性が自分の怒りを制しても、目につくのは、その人の嫌な所ばかり。
そして、その初めの小さな嫌な所がやがて大きな嫌悪感へと成長していく。その人の行いだけでなく、その人そのものへと的が大きくなっていく。
標的を成長させたのは自分の身勝手な空想力かもしれない。
「こんな仕事を雑にする人だから、きっとその他のことも雑に違いない」、勝手にそう思って、せっせと同僚から納得するための都合のいい情報を集めていた。
イライラが続いたある日、ふとしたことに気づいた。
自分以外の周囲の人に、この人の行動は、本当はどのように映っているのだろうか。
その人の行動に関して、同じような情報が集まっていたから、周囲の人も全く同じように感じている、嫌な思いをしていると、勝手な安心感を育てていたのではないだろうか。
疑問はやはり当たった。
聞いてみると、その嫌さ加減が人によって様々だった。
当たり前のことだ。でもそんなことに気づかなかった。私の意識が嫌な人ばかりに集中していたためだ。
今自分が見ている世界は、自分の作り出した世界であることに気づいた。
人の眼は、カメラのレンズの様に物理的にあるがままの世界を映りだしていない。興味のあることには、それが大きく拡大され、興味の無いものには存在感すら与えない。
それは、その人の個性であり、強みであり価値観の表れだ。
だから否定することは出来ない。
大切なのは、相手と「見えている世界が違う」と認めることだ。
そしてもうひとつ、自分が「見えている世界」は、自分が作り出し、成長させているということだ。
だから、「この人が嫌だ」という思いは、その嫌な人にエネルギーを注ぎ、その存在をどんどん成長させている。
勿論その成長度合いも他人とは違うものになる。
だから他人とも「見えている世界」がさらに異なってくる。
改めて心に留めておきたい。
そうしないと同じような間違いをまた起こしそうだ。
「自分が今何を見ているか意識する」
「自分が見ている世界は自分が作り出した世界であること」
「自分が見ている世界は相手が見ている世界と違う」
こんなことに気づけば、もう少し生きやすくなる。