小説『DNA51影たちの黒十字』(続ロザリンド物語) 〜11〜

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小説『DNA51・影たちの黒十字』(続ロザリンド・フランクリン物語) 〜11〜



                    12     ニューマーケット密会

 ユダヤ系大財閥サッスーン家の准男爵ヴィクター・サッスーン卿が
ニューマーケットに現れたのは10月のことであった。

 ニューマーケットは賢振寺(ケンブリッジ)から20km程東方に位置する町で、田舎の本当に小さな小さな町ではあるのだが、競走馬の馬産地として世界的に有名な町である。

 この20km程の距離を京都駅から東方約20km位置で捉えるならば、
それは琵琶湖東岸、滋賀県の草津市や栗東市の位置に相当することになろうか。現在、その東方20kmの所、栗東市には競走馬のJRA栗東トレーニングセンターがあるので、京都駅と栗東トレーニングセンター間の距離感覚で考えると、賢振寺とニューマーケット間の距離感が実感できる。

 サッスーン卿がこのニューマーケットで手に入れた仔馬ピンザ(2歳)が
9月のタターソールセールステークスを圧勝して頭角を現した為、サッスーン卿はすこぶる上機嫌となった。ピンザ号が10月にはニューマーケット競馬場で開催されるデューハーストステークスに出馬するということで、上機嫌のサッスーン卿は知人たちをレース当日に合わせてニューマーケットに招いたのであった。ピンザが翌年の3歳の最高峰レースであるダービーをも狙える程の
類い稀なる逸材であると踏んだサッスーン卿はピンザ号を知人たちに自慢したくて仕方がなかったのかもしれない。或いは、翌年にダービー出走が叶えば、優勝が間違いないことを周囲の人々に確認して同意してもらいたかったからかもしれない。
 所有する馬からダービー馬を輩出させるということは馬主にとって困難極まりない悲願ともいえるもので、競走馬のオーナーブリーダーであり、女王在位の長いエリザベス女王陛下でさえダービー馬を輩出させることに成功してはいなかったほどである。

 サッスーン卿は競走馬の生産・育成に手を出して以来、他の貴族馬主たち同様に強い競走馬から強い仔馬を産み出す為、 形質遺伝現象 に高い関心を抱いていた。どの系統の馬と、どの系統の馬を掛け合わせると良い仔馬が誕生するのか、貴族馬主たちはそれぞれに研究を重ねて独自の遺伝説を編み出しているのである。賢振寺大学のマックス・ペルーツ博士は特に競走馬に興味は無かったのだが、大財閥とのお付き合いの一環としてサッスーン卿の愛馬ピンザ号
の見物に出掛けることにした。
   この機を利用してペルーツ博士は研究室の中堅研究者であるクリック博士ひとりをニューマーケットのホテルに呼んでいた。表向きはピンザ号見物ではあるが、このとき携行したペルーツ博士の鞄の中にはロザリンドが英国医学研究機構に提出した報告書が忍ばせてあったのである。

 賢振寺・ニューマーケット間は田舎の単線路線で列車本数も数多くはない。
早朝の一番列車に乗って賢振寺より到着して来たクリック博士は、朝靄に包まれたニューマーケットのホームにひとり降り立った。田舎の単線駅。プラットフォームも1本のみで5m幅と細く、表面は朝露でしっとりと濡れていた。駅の周りは深い朝靄に包まれ、乳白色の単色世界が広がっている。朝靄に煙る駅前の広場を渡るにつれて正面にはうっすらと建物の灰色壁が現れた。駅前の古いホテルである。クリックはその古ホテルの重く錆びついた扉を引き開けた。

 ペルーツ博士との待ち合わせに指定されたのがこの駅前の古い小さなホテルであったのだ。ホテル受付けの老人にペルーツの名前を告げると、本人は外出中でもう時期戻るとのこと。大きな古いグランドピアノが中央に置かれた薄暗いロビーで、クリックはペルーツが戻るのをトワイニング紅茶をすすりながら待つことにした。
 立ち込めていた深い朝靄も晴れ渡る時分になって鞄を携えたペルーツが外から現れ、早朝に行われたピンザ号の調教運動を見物させられてきたのだとペルーツは言った。

「朝飯食うたらワシは財閥連中とまた今度はピンザのレース見物に付き合わなあかん。それまでの間にここではキミがお望みだった書類とやらを見てもらおう思うんや」

そう言うとペルーツは鞄から例の書類を取り出した。
「ゆうとくけどな、
 こんな書類な、部外者がそうそう簡単に見るようなもん、おまへんのや、
 そこんとこ、ようわきまえとって、おくなはれや」

クリックはペルーツから受け取った書類のページを捲った。
そこにはワトソンがクリックに話していた、B型結晶による
    “影たちの黒十字”    
図形の画像が添付されていた。
   『これが B型結晶 の回折像なんや・・・・』
それは見事なほどに鮮やかな画像であった。
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「ほな、ワシ、部屋に戻ってシャワーでも浴びてくるさかいな、
 ゆっくり書類見ときなはれや。戻ったら朝飯食わなあかん・・・・・。
 大財閥様との付き合いも、朝の早起きやらで、ほんましんどいもんや・・」
そう独り言をブツブツと洩らしながらペルーツはロビーから姿を消して行った。

 どうやら、早朝のピンザ見物に備えてペルーツは前日夜からニューマーケット入りしていたとみえる。それもこれも医学界に大財閥からの資金が流れてくるのを期待しての、付き合いゴルフならぬ 付き合い競馬 といったところなのかもしれない。

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