ギャンブルのチカラで、いチカラ積み上げる(’09~’11)
”仕事でこのスロットで使ったメタモン方式を使ってみよや”
なぜか班長に怒られやん先輩がおったで、その人達のものまねをした。
・自分の与えられた仕事に興味を持っとる(探求心)
・仕事モードとおちゃらけのメリハリがついとる
・メンバーとの人間関係を大切にしとる
その先輩たちは、職場のメンバーからも凄まじく信頼されとったで、俺もこうなりたい!これを真似しやん手はなかった!
そして俺がやったのは1つ。
「毎日班長の良いところをノートに書く」ということ。
班長からは絶賛シカト中やったけど、なんで俺を嫌うか分からんかったし、まず俺が班長のことを知ろうと思った。
忌まわしき憎き班長の”良いところ”を毎日家に帰ったらノートに書く!
うん!できまん!笑 でも書いた!
今思えば明らかにパワハラやろレベルの素っ気ない態度をされても、無視されても仕事で分からない事は、ほかのメンバーでなく班長に聞きにいった。
定期個人面談の時には、勇気を振り絞って「僕と飲みに行ってください」と言ってみたけど「行かんわ!」と玉砕された。
…でも明らかに何かが変わってきとった。
「仕事を知ることで楽しくなってきた。」
「周りのメンバーが話しかけてくれる様になった」
「班長が話しかけてくれるようになった」
ノートを書き始めたことで、相手や仕事を知ろうとする癖がついた。
先輩たちはそれが出来とった。俺は逃げとっただけ…楽しくない仕事に本気で取り組もうとしてなかっただけ…。
ノートを書き出して1年が経ったとき、こんな事を言われた。
「ほんとうに神田は変わったな‼」
その言葉には、顔色を伺って要領よくしとるだけじゃなく、探求心と信念を持って仕事している俺を認めてもらえた気がした。
そしてどんどん仕事が楽しくなってった。
一年後、班長は昇格し係長になり、その係長の一声で俺はリーダー格になった。先輩たちの良い所を真似することで、嫌いな仕事と班長のことが好きになれた瞬間やった。
オラオラリーダーの登場!母と同じ道、人生で最高潮に病むの巻(’11~’13)
係長の指示でリーダーポジションとして新しい職場に転籍になった。
その後、今までの関係が嘘だったかのように係長との関係は良くなり、周りからは「師弟関係」と呼ばれていたらしい。
”あの軍曹係長からのお墨付き”というだけで、他の職場の上司やメンバーからも声をかけてもらう事が多くなり、自信に満ち溢れとった。
新しい職場では初対面の人ばかり…「若造のくせに偉っそうに」と思われないように、はっきりと意見を言うようにしとった。
そんな中でも相変わらず、ものまねは継続してやった。
(この問題…あの先輩ならどうするんやろう?)
(こうゆう時、係長なら何て伝えるんやろう?)
一回自問自答してあの人達を思い浮かべる…。で、行動!に移した。
自分の好きなようにできる環境と自信に満ち溢れた俺が自己中な俺をヒートアップさせた。そこには…
”自分の考えがなく一貫性のない俺の言動”
”自分は動かず、人には強く当たる”
少しずつ…少しずつ…俺に話かけてくれる人はおらんくなっていった。
まさに、俺が小さい頃にお母さんにされていた事と全く同じことを職場のメンバーにしていた。
(あの先輩やったらどうするやろう?係長やったらどうするかな?)
いろんな人の真似をしたけど、すればするほど苦しくなり自分の事が嫌いになってく…。
ネットで【仕事 人間関係 好かれる方法】って調べても答えはでてこやん…。会社に行く途中の車の中で心臓がドキドキしてくるし、休憩中は人を避けるように独りで休憩。好きだった先輩と話している時でさえ、顔が引きつって何を話していいか分からへん。
プライベートではスロットが面白くなくなって、友達と遊んでいても笑えやんくなった。
そして会社を一週間仮病で休んだのち、係長に職場の転籍依頼をした。
人生で一番つらかったときやった。
独りになったとき、”一人の理解者”にひとつだけ聞いたこと(’13~’14)
社会人2年目のときに”人助け”をしている男性と知り合った。その男性も「ゆうや」というカッコいい名前を持っていて、同い年。
カウンセリングやコーチングといった仕事をしているらしいが、この人のすごさを知らずに、ただの遊び仲間として出会った。
岐阜県の子やったで、頻繁に会うこともなかったけど…さすが陸上選手。〇〇競技の大学チャンピオンで体育会系な事もあり、人生と人に超アツい男やった。
実は人生で息詰まったことがあれば
いつも”岐阜のゆうや”に相談しとった。
・お母さんに泣いて初めて自分の意見を言ったとき
・大事な恋人をキズつけてしまい、土下座して謝りに行ったとき
・班長を知ろうとノートをとったり食事に誘ったとき
いつも相談してアドバイスや課題をもらっとった。
そしてこの人生で一番つらかったときも、毎日電話して助けを求めていた。
「今までみたいに俺に課題をくれ。今の環境を変えたい…頑張るから…。」でも”岐阜のゆうや”はこう言った。
「おお、今のお前は何も問題ないやろ~はっはっは」
(ちょっと待ってくれ…再絶頂で病んでんねん…)
俺の気持ちを汲み取れやんくなってしまったんかな?さらに不安になった。週末は必ず岐阜から三重に来てくれた。俺は何も楽しくなかったけど普段通り風呂にいったり、飯に行ったりした。
会社の人間、彼女や友達…ほぼ誰と会っても顔がひきつって、自分らしく居られない。気をつかい過ぎて気が狂いそう。やからといって、独りでいるのは不安でしかたない。でも、岐阜のゆうやだけにはこころの声を全部話せていた…そしてあるとき、電話で「人の3倍苦労しろ」ようやく課題をもらった。
大事なことは全部過去に詰まっていた(’13~’15)
それから水を得た魚のように、前向きに課題をこなそうと努力した。
誰よりも早く会社に来て、トイレの水回りの掃除をしてみたり、休憩所のゴミ出しをしてみたり、誰もやりたがらない仕事を率先してやってみた。
さらに職場内でも人の3倍苦労する事を心がけた。
誰の為に? …うん、自分のために頑張った。
「自分ノート」を書いていたあの頃のように
仕事に興味を持ち、次々と新しい事にも挑戦した。
それを半年~1年間繰り返していると、ほんの少しずつ周りの人が話しかけてくれるようになり、自信と知識がついてくる事で人がついてくるようになった。少しずつ少しずつやけど、気持ちも楽になっていった。
今思えば、高校受験のときにカシコの友達を見て焦って鬼勉強したときって、誰にやりかたを聞くでもなくひたすら教科書を写し続けた。
それでも勉強を苦痛に感じる事もなく頑張り続けれたのは、自分のやりかたで自分のペースで自分らしく頑張れたから。
先輩の真似をして上手くいったこともあったけど…でも、それは俺の考えでやった訳じゃない。モノマネだけでは上手くいかんこともある。
「あの人ならどうするやろ?」
そんな不格好な生きかた…息苦しくて…生きている居心地がしやんかった…
”岐阜のゆうや”は気付いとったけど何も言わんだ。
教えてくれやんだ訳っちゃう…自分らしさが無くなった俺に自分で考え抜き、自分らしく生きていく事の大切さを気付いてほしかったんや。
鼻っから答えだけ聞いとっても”オラオラ”の俺には何も響かんだと思う。答えを教えずに…相手に寄り添う。
”俺の事を俺よりも考えてくれている理解者に俺は救われた”
自分らしく生きる それが自分の人生 (現在)
今の会社を辞めて
相談業を仕事をしていくことを決心した。
俺が本当にやりたいことは”人を元気にすること”
それが俺にとって一番の幸せやと思った。
自分で選んだことに後悔はない。
そして“1人の理解者がいるだけで、
”どんな壁も乗り越えられる”
”本気をだせる”
それをみんなに実感してもらいたい。
10年間俺が体験してきたことそれを次は俺がやっていきたい。
生きていくという事は”人と繋がっていく”ということ。
独りで生きていけやん!
自分だけが経験したつらいことが
”自分らしさ”を妨げてたら
俺が変えてみせる
【人は変わらない】
口々にひとは言うけど…そんな事あるか…
”自分が変われば、必ず人は変わる”
”自分を変えることなんて超簡単”
過去を振り返ったときにパッとでてくる人達。
お母さん、係長、岐阜のゆうや
すべてが自分のために必要だった人達…。
今ではみんなに感謝できる。こころから。
俺の生き方に感化された母さんは、今では良きライバル。”死んだ妹の夢だった花屋さん”を始めた。
係長は課長になり何百人もの部下がいる。
俺の永遠の恩師。あのとき断られた「飲みのお誘い」
4年前から毎年恒例で楽しみや。
そして岐阜のゆうやは今も俺の理解者。
カウンセリングやコーチングを教えてくれる
俺の一人の理解者。
幸せになるには、自分らしく生きること。
自分らしさが分からんかったら
一緒に探しにいこう。
逃げ出したい時には
一緒に逃げよう。
あなただけの”こころの銭湯”に俺はなります。
最後まで読んでくれて本当にありがとう!