【掌編】いつか来るその日が、せめて遠くでありますように

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 キッチンで洗い物をしている妻と、その足許にまとわりついている娘。
 とても愛らしい絵だし、見ていて和むことは否定できないが、どうしてそこにお父さんも混ぜてくれないのか。
 自分から近寄ればいいとわかっていながらも、なけなしのプライドがそれを許さない。
 キッチンの入り口まではなんとか来ることができたが、この先はどうしたものか。
 むぅ、と拗ねたままふたりを見ていると、俺の視線があまりにも羨望交じりだったのだろうか、妻が俺を見て溜息を吐いた。

「お父さんが寂しがってるみたいだから、構ってあげなさい」

 妻の言葉に、我が家の天使様が、こてん、と首を傾げる。

「お父さん?」

 妻の足にしがみついたままこちらを不思議そうに見る娘は、もう疑う隙もないくらいに天使だ。
 パチパチと瞬きを何度か繰り返してから、その幼げな顔が輝かんばかりの笑顔で彩られる。

「お父さんっ!」

 パタパタと覚束ない、それでも随分しっかりしてきた足取りで駆け寄ってくる天使の背中に純白の羽があるのは、きっと見間違いではないはずだ。
 あまりの可愛さに崩れ落ちて床に膝をついてしまったが、この状況でそれは大正解だったらしい。

「お父さん、つかまえたっ!」

 そう言いながら抱き着いてきた愛娘のキラキラした笑顔に、胸の奥がキュンとする。
 呆れた顔の妻は、一旦無視しておこう。
 今の幸せを噛み締めるのが、現時点で一番重要なことである。

「ぎゅー!」

 わざわざ擬音を発しながら抱き着いてくる愛娘を、しっかりと抱き返した。
 どうしよう。
 天使以外の言葉が、見つからない。

「なぁ、妻よ」

 呼びかけたのに、返事がない。
 どうしたのだろうか、とは思ったけれど、可愛い可愛い愛娘を離すだなんて選択肢は最初から用意されていないので、ただ返事を待つことしかできなかった。

「……なによ」

 まるで抵抗するような、たっぷりの間を明けてから聞こえた返事は、苦虫を何匹噛み潰しているのだろうか、と聞きたくなるくらいの苦り声だ。

「うちの子が天使で困る」
「それは同意だけれども」

 今度は間髪を入れずに返って来た答えに満足して、だよな、とさらに答える。

「うん、同意なんだけどね。いつまでもそこにいられると、正直邪魔。せっかくだから、一緒にお風呂でも行ってきてよ」

 取り敢えず抱っこにシフトチェンジしながら妻を見ると、まるでこちらには興味もないような顔をして食器を洗っていた。
 その冷静さがなんだか不思議だ。

「なぁ、羨ましくないの?」
「は?」
「いや、ほら。うちの天使様にくっつかれてるのとか」
「はぁ?」

 妻はようやくシンクに向いていた視線をこちらに向けたけれど、その顔に羨望の色は一切ない。
 どちらかというと、面倒臭そうだ。

「なんで私が、あなたを羨まなくちゃいけないのよ」
「だって、うちの天使様が」
「いや、だから。あなたは今だけでしょ。私は一生、お母さん大好きって言ってもらえるもの。どうして一過性のあなたを羨まなくちゃいけないのよ」

 雷に打たれたような衝撃、とはこういう感じだろうか。
 震えて固まる俺に、妻は容赦なく言葉を続けていく。

「もう五年もしたら、お父さんウザい。十年もしたら、お父さんのパンツと一緒に洗濯しないで。十五年もしたら、会話すらなくなるわよ」
「ちょっ、やめろ! リアルな数字やめろっ!」
「あーあ、お父さんカワイソー」
「棒読みもやめろ!」
「まぁ、心配しなくても思春期が落ち着いた頃には普通に会話もできるようになるわ。二十年後くらいかしらね」

 さらなる追い打ちに、とりあえず俺は愛娘を抱きしめたまま撤退した。
 これは逃げではなく、戦略的撤退なのだ。

「ちゃんと肩までつかって、百よ」
「はぁい!」

 普段は和む妻と娘のやりとりにも、和む余裕がない。
 だけどやっぱり俺の娘と妻、マジ天使。

「お父さん?」

 キョトン、とした顔で見上げてくる娘の可愛いこと、可愛いこと。
 よし、とりあえず。

「なぁ、お父さんのこと、好きかぁ?」
「うん、大好き!」
「そうかそうか。お父さんもおまえのことが大好きだぞ。世界で一番だっ!」
「わたしも、お父さんが世界で一番好きだよっ!」

 思春期に入った子供が傍にいる近しい異性を、つまり大体は親のことを、気持ち悪いと感じるのは、正常な成長だと聞いたことがある。
 遺伝子上の不具合などを起こさないように近親相姦を本能的に拒もうという生理的に正常な現象で、幼い頃から傍にいた異性を拒んでいるのだと。
 ならば、きっといつか本当に、そんな日が訪れてしまうものなのだろう。
 でも。
 いつか来るかもしれないその日が、なるべく遠くでありますように。
 そんな俺の願いを、打ち砕くように。

「だけどお母さんが、宇宙で一番好きなんだぁ」

 ぴしゃーん、と再び雷に打たれたような衝撃を受けながら、俺は愛娘を間違っても落としてしまわないように自分を律した。
 大丈夫、そう、大丈夫!
 まだきっと、先の話だから!


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