ひとつの表現

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コラム
おはようございます。


多肉さんの赤ちゃんを、食べた後おいていた
ケーキの器に植えて、窓辺に並べました。
曇りガラスの窓も開けてみると
こんな景色が広がっていたことにはじめて気が付きました。


友人がお花と一緒に来てくださって・・・
豊かなひとときをありがとうございました。


みんなどんな状態に見えていても
その状態を不足とせずにというのか
不足していると思い込んでるのは、
”私の部分”であって・・・


自己実現しようしようと前のめりにならなくても
あるがままの流れに身を任せていたら
人は自然と適材適所におさまるようになっている。


でも、私たちは生まれてからの知識で
”これが理想”という条件をつけるので
苦しさが生まれてくるのですよね。


そこ関係なく物事は起きてくるわけですから・・・


思い通りになるときもあれば
そいでないときもある。
それが自然。


思い通りにならないのは
”この私”のせいでもなんでもなかった・・・


このことに気が付いたとき
ふ~~~~っと力が抜けたのを覚えています。


”私が”しているようなことはなく
その場と一体になって
縁が起きて、
”私が”していると思い込んでいることも
起きている。


そして、今ここも私たちの認識は後です。
先に起きています。


ということは、過去の今も、未来の今も(方便)
どうしようもなく
起きてしまっていて
どうする隙はなかったのです。
このことに気が付いたときも
同じく緩みました~^^


でも、変わらず、いろんな思考は
湧き続けてきています。
老子さんはそれを水や雲が流れるように
放っておくと表現されてました。


流れないように
考え続けてせき止めてしまうと苦しくなりますね。


ぽいぽ~いと捨てちゃって
今に今日も安らいでいましょうか^^


多肉さんにしても、ケーキの器にしても
そしてまた友人たちも
適材適所におさまるようになって・・・
ひとつの中で全てが繋がり合って
ひとつが様々な表現に変化して生きてる。
私たちもその一つですね。


ありがとう♪






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