『隙間』短編小説(3000字)ホラー

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 唐突だが、いわゆる「幽霊」というものを信じているだろうか。死んだ人間が成仏しきれずにこの世を彷徨うだとか、賃貸で自殺が起こった時にはいわくつきとして事故物件になるだとか。
 この世には、そんな話がごまんとある。旧くは、妖怪なんてものも信じられていたようだ。あえて過去形にしたのは、昨今では妖怪はキャラクターとして可愛く消費されるものとなり、本当にいると信じている者はそう多くないだろうというのが私の見解だからである。おそらく、科学の進歩と人類の世界への理解が進むとともに、妖怪とされていたものの正体が明かされていることもあるのだろう。
 しかしなぜ、こと幽霊に関しては、みな恐れるのか。私はといえば、全くそういった存在を信じていないクチだが。なぜなら妖怪がそうであるように、これから幽霊も解明されていくに決まっているし、自分自身、見たことも感じたこともない。

「まったく、幽霊なんぞに怯えてこんなに良い物件を避けるなんて。みなさん案外臆病なんですね」
 貼り付けたような薄笑いを浮かべ、手をこねながらこちらの様子を伺う賃貸仲介業者は、それを聞くなり明るい表情で食い気味に私の言葉に同意した。
「おっしゃる通りです!ここはほぼ新築で駅も近いし1LDKで管理費含めてなんと4万円なんですよ!都心で1LDKを借りようと思ったら、普通10万円を超えるなんて当たり前なんですから!」
 早口に捲し立てる業者の言葉を話半分に聞きながら、件の物件情報を眺める。本当に、普通ならあり得ないくらい破格だ。これは即決していいくらいだが、一応内見には行くと伝えると、担当の男はそそくさと車の手配をしに向かった。
「……あの、こんなことを私が言うのもなんですが、本当にここは辞めておいたほうが良いと思います。内見に行っただけで具合が悪くなる人も続出していて……」
 隙を見計らったように、明らかに気弱そうな女がそう話しかけてきた。心理的瑕疵というのだったか、そういう物件は一度人を住まわせれば、以降は自殺があっただの、そういう情報を伝えなくて良いことになっているらしい。業者としては願ったり叶ったりではないか。だがこの女は幽霊を信じているタイプなのだろう。くだらない。親切心を丁寧に退けて、ちょうど車の用意ができたと呼ぶ先ほどの男のところへ向かった。
「いやぁ、本当、塩谷様のように豪胆な方は少ないんですよ。ほんと、良い物件をご紹介できそうで何よりでございます」
 いちいち癪に触る男だ。人間、下手に出られると優越に浸れるものだが、度が過ぎると腹が立つ。舐めているのだろうか、とすら。男の話に相槌を打つのをやめて、車の後部座席でガバリと足を開いて座る。幽霊なんぞより、こんな人間と対峙している方がよっぽど疲れるものだ。

「いかがでしたでしょうか?」
 結局、内見で女が言っていたような異常は見当たらなかった。南向きで日差しも良く、収納も多い。御徒町駅から徒歩ほぼ二分きっかり。これだけ駅から近いと買い物にも困らない。これで、管理費含め4万円。
「ここにします」
 内見中、終始玄関でそわそわしていた男にそう告げると、小躍りするかのように帰りの車へ誘われる。まったく、分かりやすい男だ。



「本日はお忙しい中……」
「こちらこそどうも」
 男の得意の早口の口上を遮って、帰り支度をする。もう契約は済ませた。さまざまな情報を見せられ、内見では細かく生活のイメージをしながら部屋を見て回って、とすると頭が疲れる。これ以上は不快なお喋りに付き合う気はなかった。
「ありがとうございました!」
 深々と、地面にに髪の毛がつくのではないかと思われるほど頭を下げる男を横目に「気持ちの悪いやつだ」と呟いた。
 さて、今から帰る先は東京都西部の実家である。三十歳にもなって実家に居座る気か!と親父から小煩く言われたため、このたび一人暮らしをすることになったのだ。
 まあ、元々は母親が「ずっとうちから通えばいいじゃない」と子離れできずにいたのを良いことに住んでいただけだ。実家を離れることに異論はない。しかしまあ、都内に一人で暮らそうとすると、存外高くつくのだと知った。
 だからこそ今回の物件が、まるで暗闇の中に光る一等星のように輝いて見えたのだ。あんなに良い物件がいるかいないかもわからない幽霊のために、4万とは。まあ、人死にがあっただけでも嫌な気がする人もいるものだろうか。
 通勤で慣れた電車にゆらり揺れること一時間半。やっと実家の最寄りにつく。まあ、実家はさらにそこからバスで十分かかるのだが。
 いつもならバスで帰るところだが、家に帰って両親から「どこにしたの」だの「部屋の様子はどんなだ」だの、やいのやいの言われるのが目に見えている。再度言うが、今日は疲れた。なんなら仕事の日よりも疲れたかもしれない。普段人と会話することの少ない仕事だからか、四六時中誰かがついて回るのにくたびれた。
 今日は歩きにしよう。ちょうど時刻は15時半。冬が明け、外を歩くのに肩をすくめなくて済む時期だから、きっと悪くないはずだ。
 実際に歩いてみれば、意外なところに気がつく。ゆっくり周囲を観察して歩くなんて、おそらく無邪気に歩いていた小学生の頃以来だろう。あんなところにパン屋なんてあっただろうか。と思えば、昔あったはずの小さな玩具屋がなくなっている。そんな細かな気付きが少し楽しくなってきた。
 人の家を見てみるのもいいかもしれない。おや、ここは昔よく一緒に遊んだ「ムラちゃん」の家じゃないか。歳を重ねるにつれ、友達の数は減る。引っ越したのか、そこは空き家のようだった。何度も叩いた玄関扉を感慨深く眺めてから、さて帰るかと首を回したとき。

ーー何かが見えた。

 それは、ムラちゃんの家の玄関扉の縦に長く伸びるすりガラス。その細い間に、何かが、いや誰かがいる。
 いやいや、空き家であったことを確認したばかりだろう。誰かがいるはずなんてない。さっきだって、影のひとつもなかった。そう分かっているのに、視界の端に映るすりガラスに蠢く何かがある。
 きっと何でもない。ただ何か、そう、例えば中に落ちていた紙だとか、そういうものが舞ったに違いない。
 振り向いて、確認すればいいだけのこと。だが、どうしてもできなかった。気味が悪い。いやいや、何を考えている。幽霊なんて、いるわけがない。
 馬鹿らしい。振り返る理由もないじゃないか。確認しなくたって、誰もあそこにいるはずはないのだから。
 それからは、もう周囲の観察など辞めてしまって、スタスタと足早に家に帰った。予想通りどんなところにしたの、と問うてくる母親の言葉に「事故物件だ」とは言いにくかった。「ここだ」と資料だけ机の上に置いて、自室のある二階へずんずんと向かう。
 幽霊なんていない。だけど、契約した部屋で誰かが死んだのは事実なのだ。では次に住む自分がその誰かを知る権利もあるのではないか?友人から「賃貸探すならココ見といた方がいいよ」と送られてきたURL。興味がない、と一蹴したそれを急いで開く。
 今日契約した住所の番号を打ち込んで、見つけた。そこには「自殺者あり」の表記があった。流石に名前やら何やらの個人情報は少なかったが、二十九歳の男性が去年亡くなっていることが分かった。
 私は半開きになっていたカーテンをきちっと閉め、ごちゃごちゃ物の溢れかえるクローゼットをなんとか片付けて、ピッタリ締め切った。自室の扉のすりガラス。あれをどうにかしなければ。この際何でも良い、適当な長さの布。ベッドカバーを切り裂いて、すりガラスに貼り付けた。これでなんの心配もない。

ーー心配?

 いやいや、私は一体何の心配をしているというのか。本当に、馬鹿らしい。そう思うのに、貼り付けた布を剥がす気にはなれなかった。
 きっと今日は疲れているから、気が動転しているのだ。もう今日は眠ってしまおう。
 ベッドに倒れ込んで、慌てて毛布を深く被る。目を瞑ると、不思議と今日内見した部屋が鮮明に思い出される。あそこのキッチンにも確か、すりガラスの窓があった。
 次第に言い知れぬ不安感が襲ってきて、必死に毛布に包まる。今なら両親のうるさい声かけも恋しく思えてくる。
 本当にあそこに引っ越していいのだろうか。両親は、そんな部屋怪しいからやめなさいと、否定してくれないだろうか。
 落ち着け。疲れているだけ、それだけだ。今日はもう寝る。幽霊なぞいない。いないのだ。

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