『はなさないで』短編小説(2500字)恋愛

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 夜も更ける頃、ちょうどベッドの上に座ったところだった。薄暗い部屋には眩しすぎる光が突然現れて、私は手早く薄っぺらな板を手にする。
『今から来れる?』
 簡素な文面はいつもと同じで、身勝手だ。どこへ行くかも何時に解散することになるかも、全部全部分かっている。
『いいよ』
 こちらもあえて簡単に返す。このやり方が意味を持っているのかどうかは分からない。スマートフォンをお出かけ用の、小さな白地に黒の格子柄が加えられた新品の鞄に突っ込む。簡単なメイク道具や必要なものは全て揃っている。あとは、自分の準備をするだけだ。
 クローゼットを開いて、この間着た服を奥に避ける。淡いブルーの膝丈のワンピースを手に取って手早く着替えたら、白いふわふわのアウターを身に纏う。メイクだって、手慣れればそう時間はかからない。冷静に、慌てることなく着実に可愛い顔を作っていく。
 ほんの十数分で準備が終わって、家を出る。施錠を確認したら、あとは駅へ向かうだけ。鍵付きのSNSで、彼に会いに行くことを公表しようとして、やめた。どうせ碌な返事はつかない。
 電車に揺られること20分、やっと彼の家の最寄り駅に着いて、ため息をつきながら歩く。前なんて見なくてもたどり着けるから、スマホを見て歩く時間を潰した。
 インターフォンの間抜けな音を鳴らせば、返事もないまま鍵が開く。グレーのスウェットを着た彼が気怠げにドアを少しばかり開けてくれる。その間に手を差し込んで、自分の幅分開いたら、遠慮なく玄関に上がり込む。
 わざわざ履いてきた脱ぎずらいヒールの靴から足を抜いて、洗面所で手を洗う。おつまみに買ってきたお菓子やらお酒やらは、冷蔵庫に詰め込んでしまえばいい。
「今日は何を観るの」
 問いかけに返ってきたのは、相変わらず聞いたことのないタイトルだった。サブスクライブのサービスに入っている彼は、その映画が有料にもかかわらず、戸惑いなく購入する。
 彼はいつもこうだ。私の希望など聞かず、問答無用で映画鑑賞会を始める。いつから始まったかなんて覚えていない。嘘、覚えている。
 大学生の頃だった。お酒が飲めるようになると、大学生たちはこぞって宅飲みを始める。私は映画サークルに所属しており、彼とはそこで出会った。誰かの家を転々としては、映画を観て酒を飲む。時には映画館に大所帯で行く。
 色んな映画を観た。だけど、そこで観るのは大抵大衆向けの映画ばかりだった。だが色々な映画を観て、趣味が映画鑑賞だと言えるくらいには観ただろう。
 そんな中で、彼はどちらかといえばマイナーな映画を好んで選んでいた。大衆向けの分かりやすい映画しか好まなかったらしい部員たちのお眼鏡には叶わなかったようで、やがて彼主催の日には私しか集まらなくなった。
 その延長線を辿ってもう何年になるのか。とっくに大学は卒業したし、お互い仕事だってしている。けれど定期的に彼から呼び出しがかかる。一応気を使っているのか、もっぱら呼び出しが来るのは金曜の夜中だ。
 そうして、私たちは二人がけのソファで映画を観る。つまみと酒を片手に談笑することもなく、映画が終わるまで黙って観る。それがルールだった。
 今日選ばれた作品は、学園もののようだった。珍しい、と思った。彼は確かにオールジャンルで映画を観るが恋愛映画を観るのは意外だった。私も例に漏れずオールジャンル観れるタイプなので、特に問題はないのだが。
 なぜだか緊張してしまう。きっと私だけが意識している、彼のこころ。言わずもがな、私は彼に恋をしている。そうでなければ、こんな夜中の呼び出しになんて応じない。けれど、きっと彼にとって私はあくまで映画友達のままなのだろう。驚かれるかもしれないが、私たちは手を繋いだことすらない。
 映画に、没頭する。部活で野球を諦めた男の子と、文化部の女の子がアルプススタンドで青春を繰り広げてゆく物語。諦めることに、本当にそれでいいの?と問いかけをするさまが、印象的だった。
 なぜ、彼は今日この映画を観たかったのだろう。映画を観たら、すこしだけ会話を交わして帰る。もしくは、連作などを観る時は、朝まで観続ける。それが常だった。今日はきっと、帰ることになるだろう。終電にもギリギリ間に合う。
「今の映画、どうだった?」
「面白かったと思うよ。学園ものの恋愛映画にしてはメッセージ性が強いなった思った」
 私のこれまた薄っぺらな感想に、彼は満足したようだった。じゃあ、そろそろ帰ろうかな。そう言ってソファから重い腰を上げた時だった。
 ぐいっと右腕が引っ張られる感触がして、柔らかなソファに逆戻りしていた。こんなことは初めてで、わたしはどうしたら良いのか分からない。彼は、何の意図があって引き止めたのだろう。
「俺は、このままじゃいけないと思ってるよ」
 言葉の真意が掴めない。けれど、彼に向けている恋心が、先走って期待する。なんのこと、と聞き返しても彼は何も答えない。ただ、右腕が掴まれたままでいる。このままできれば離さないでいてほしい。それを伝えるには、私のこの押し込めた気持ちをぶつけなければならない。
 気持ちが違っていたら、きっとこの心地よい関係は終わってしまう。彼から連絡が来ることも、二度と敷居を跨ぐことも、なくなってしまうかもしれない。そう思って今まで塞いでのに。
「そんなの、私だって同じだよ」
 ぼろぼろと出したくもない涙が滴る。二人してさっき観た映画に影響されてしまったのだろうか。誰もが懐かしい青春に、感化されているだけじゃないの?
「それで、どうしたいの」
 ずるいやり口だ。決して自分から決定的な言葉は発しない彼を、睨めばいいのか、笑えばいいのかわからなかった。
「……はなさないで」
 長い沈黙の末に私が発したのは、それだけだった。あなたがそういう態度なら、私だってそうする。私が妥協できる一番ギリギリのところ。どうか、きちんと伝わってほしい。
「わかった」
 彼はそう言うと、私の腕からするすると手を下ろし、私の手のひらを握った。きゅう、と締め付けられる胸に、これはそういうことなのだろうかと、一人考える。
 それから私たちは、次の映画を選ぶこともなくただ、カーテンの隙間から光が舞い込んでくるまで、決して手を離さぬままでいた。
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