人生は可能性の海

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コラム
人間は、思いの不一致、相互に理解できないと、愛する事はできなくなります。

時間の経過とともに、価値観の変化はあるのが当たり前であり、大人になったつもりでも、自分の自由を剥奪する対象に対して無差別に剣を向ける事は、避けられない現実でもあります。

私の子供が中学生の時(現在は30を過ぎています)の事ですが、「承認欲求を満たす事で生徒を伸ばす」的な、目標を定められておりました。

多感な時期でもありますので、「褒められる事」は必要でもあります。

しかしながら、社会に出ると褒められる事は、ほぼありません。

称賛を形として受けて来た子供達は、現在どうなっているでしょうか?

学校で、「善悪」を教えることは無いのでしょうか?

先生方が分かっているかどうかも怪しいと感じます。

「対面と保身」

これが邪魔するのでしょうね。

過去でこの様な教育を受けていた一部は、「違った意味で、承認欲求を満たしている」のではないかと見えてしまします。

教育の全体を考えると、(以下は私が思っているだけですよ。)

幼稚園では、「家庭で、こんな悪い癖を付けないで欲しい。」

小学校では、「幼稚園は教育の場では無いからしょうがない。」

中学校では、「小学校では生活の基本的な事も教えていないのね。」

高校では、「中学校では、何を教えているのか、さっぱりわからない。」

大学では、「なんで?ここに来たんだ?」(私は大学には行っていませんので想像ですが、取り敢えず大学教授の授業は何回も受けたことがあります。)

学校の上部組織にそれらの認識が欠如し、混乱を招いているようにも感じてしまいます。

全体が見えない、それぞれの刺激に反応していいるだけ?

そして、この子達が大人になっても、「承認欲求」はついて回ります。

一般的に、子育てができていて、特に問題が無い家族はさておいて、「荒れた家庭」と呼ばれる場所があるとするならば、子育てをしていて、親の承認欲求を満たしてくれ褒めてくれる子供はいないと思います。

ただただ子供が可愛くて、「早く大きくなれ」、「立派になれ」と応援しつつ歳を取っていくのが親です。

溺愛するでもなく、自分の自慢道具にするでもなく、「ただただ、大きくなるのが嬉しい」そんな思いを与えてくれるのが子供だと思っています。

十分に関わる事ができない事もあるでしょう。

十分に物を与える事ができない事もあるでしょう。

しかし、思いは十分に伝わるのだと思います。

子供は気付かずとも・・・・・

かつて、私も子供をやっていましたから、その点は理解ができますし、当時は色々と申し訳の無い事をしたとの自覚もあり、反省もしました。

親として、子供が多感な時期に特には何もしてやれなかったかと思えば・・・・

お腹が空いたと泣けば、夜中は3時間おきにミルクを飲ませ、オシメを換えて、「早く大きくならないかな・・・」と思いながら子供の顔を眺めながら朝を迎え、寝不足で仕事に行き、帰ってくれば顔を観るだけで、辛いことや苦しいことを全て忘れさせてくれる魔法使いの様な存在でもあります。

もし、子供から、「何もしてくれなかった。」と言われたら、「そうかもしれないね。君の満足を満たす事は出来なかったかもしれない。それでも君は生きている。自分が生きている事を、自分に感謝してみてはどうだい?」そう言うでしょう。

子供であっても、私がコントロールできる事はもうありません。

「父」としての存在があるだけしょう。

この人生で、子供と関われた事は非常に稀有なことであり、喜ばしいことだったと思います。

両親が幸せに老いて行けるのならば、それはそれで幸せな事だと思えますし、「私の両親が、この人達で良かった。」と思える子供は幸せだと思います。

しかし、色々な人生があり個性があるので、その様にばかりは物語は進みません。

どの様な環境であれ、それを認め、曲がること無く成長して頂きたいと心から願っています。

この世は自己責任でもあり、過酷な環境も多々ありますが、「自分で望んで生まれてきた。」そう思うだけで、「開ける扉」があると思います。



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