会社員時代の私

記事
コラム
自分が健康でいたいし、まわりのみんなも健康で、笑い合って過ごしたい、それが就活時の私の想いです。地域柄、求人をいただくのはトヨタ関連の製造業ばかり。近所のクスリ屋さんから、出入りしている業者さんが新しく医療機器の開発部門をつくるらしいよとの話を聞き、その会社を訪ねてみました。すると同じ大学学部出身の先輩が出てきて、これからつくる部署だから、なんでもやりたいことができるよという。ここだ!ここなら、大会社の歯車にならなくて済むのではないか…。 大学生になってなお、出身校に出向いて部活の後輩指導にあたっていた私は、まったく就職活動をしませんでした。親からは公務員を進められましたが時すでに遅し、というか、なりたい教員免許が取れないと判った時点で、そこに興味がなかったんです。

入社して3ヵ月。本当に開発部門ができ、そこに配属となった。嬉しくて希望に胸躍らせていました。でも、新入で開発部門への抜擢は妬みのもとでもありました。就職当時の私は、学校の世界しか知りません。クソまじめで人づきあいが下手。タバコは吸わない、麻雀もゴルフもしない。つきあいの悪いヤツ、そんな目で見られました。それがストレスだったんですね。潰瘍が再発し、定時退社の病院通い。高度成長期で、まだ残業の概念もなく、夜遅くまで働いては飲みに行くのが当たり前の時代。定時で帰る私は「できないヤツ」と思われていました。まもなくして、上司が世に出て間もないマイコン(現パソコン)を手渡し、医療会計のプログラムを創れという。医療会計もパソコンも知らない私に、誰もなにも教えてくれません。どうすればいい…。悩みながら休日に新聞を眺めていると医療事務の学校広告が目に留まる。これだ!そう思った私は、そこに行かせてくれと直談判。なんと、2か月、会社のお金で就業時間に学ばせてくれました。辞めさせたいわけではないんだ…。そのことをきっかけに病院通いを止め、パソコンと格闘しプログラミングを覚えます。毎日深夜までそんなことを続け、医療会計のプログラムを創り上げました。「よく頑張ったな」、無視されていると感じていた先輩方からそんな言葉をかけられました。やっと、その部署の一員になれたと思えたできごと。

このことが社外に知れ、私は病院やクリニックから情報処理システムの開発を頼まれるようにまでなりました。大きなシステム開発を設計からプログラミングまで、全部自分でやる。他に人材がおらず、納期に追われ、寝る時間もなくなり、会社に寝泊まりする生活が続きました。それで、また私は身体を壊すんです。腹痛再発。四六時中吐き気に襲われ、無理に食べてもすぐに戻してしまう。喉に何か詰まってるような違和感まで出てくる。次第に食べられなくなって激やせして倒れ、入院しました。上司からは「逃げた」と言われれ、ベッドサイドまで仕事のことを聞きに来た。そんな苦しい思いをしながらも、人間ドック施設の情報処理システムを作り上げた私に、システム開発チームのリーダーを任せてくれました。これからだ!そう思った矢先に上司の交代。「儲からんだろう」の一言で、私の仕事は失くされてしまったのです。

会社は世のため人のためとはいうものの…利益を出さなければ存続できないのが営利企業の性。それでも私は、人々の健康のお役に立ちたかったのです。エンジニアの私がドクターと組んだら、画期的なことができると信じていた。それで私は、またも会社のお金で東京の医系大学に1年間通わせていただき、基礎から臨床医学、医用工学を学んで医療機器に組み込むソフトウェア開発に取り組んでいくのですが…。 

ライフチャート.jpg
私のライフチャート、縦軸は自覚する幸福度です。アップダウンが激しい波風人生ですよね。青く影をつけた部分が会社員時代ですが、38年9ヵ月やっていましたから、書けば本1冊では足りないほどの経験をしました。上に書いたような私の性格が災いし、幾度もどん底を味わい、3度もひどいパワハラに遭いました。「正しい」と思ってやったことで足元をすくわれる(この「正しい」がクセモノだということは後から気づきます)。業界雑誌に載る、テレビ取材を受けるなど社外評価を得る度に、ありもしない噂を流され、寄ってたかって潰しにかかる。社内営業が大嫌いだった私への報いなのか…。人間不信の自暴自棄。受診していればうつ病の診断もつけられていたかもしれないほど、心身病んだこともありました。それでも私は、その経験から何かを学び、なにクソと立ち上がっては、置かれた場所(異動先)で、自分の信じる未来を、自分のできる限り生きてきました。

いま、私の幼少期からのこんな経験が、だれかのお役に立てるのではないかと思い、ここに出品することにしたんです。


サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す