「生命倫理と死生学の現在⑬」 ~人は何のために生まれ、どこに向かっていくのか~

記事
学び
(5)「臨死(ニア・デス)体験」の物語るもの
①科学的研究の対象となった「死後の世界」

エマニュエル・スウェーデンボルグ~スウェーデン王国出身の科学者、神学者、思想家(1688 〜1772年)。前半生は鉱山技師、科学者で、化学、地質学、天文学、解剖学など、様々な分野で先駆的な業績を残しており、特に大脳皮質論の先駆性は高く評価されています。50代から幻視体験をするようになり、霊との会話や霊界探訪の記録を残していて、その多くが大英博物館に保管されています。代表的著作は『霊魂の王国』『天界の秘儀』『天界と地獄』『夢日記』などです。同時代人のカントをはじめ、後代に与えた影響は大きく、ヘレン・ケラーなどもスウェーデンボルグの教説によって霊的世界の実在を確信し、三重苦を超越する希望を見出したとされます。

「その夜、その同じ人(イエス・キリスト)が再び私に現われたのです。私は今度は恐れませんでした。彼は「私は主なる神、世界の創造主にして贖罪主である。人々に聖書の霊的内容を啓示するために汝を選んだ。この主題に関して何を書くべきかを汝に示そう」と語りました。そしてその夜、霊たちの世界や地獄および天界が、はっきりと私に開かれたのです。私はそこで、生涯のあらゆる場面で出会った多くの知人たちと再会しました。そしてその日以来、私は一切の世俗的な著述活動を放棄し、私の研究を霊的な事柄に捧げたのです。」(1745年4月にロンドンのホテルで起きた自らの召命について、スウェーデンボルグが友人の銀行家カール・ロブサームに語った言葉)

「古来、洋の東西を問わず、いわゆる霊界書と呼ばれる書物はいくつかあった。『エジプトの死者の書』、『チベットの死者の書』、日本の平安時代の『往生要集』などが代表的なものだが、ダンテの『神曲』と、浄土教の教典『無量寿経』(サンスクリットの原題は『スカーバティービューハ』)も加えられよう。
 これらの書と対比して、スウェーデンボルグの霊界書、つまり一連の神学著作の根本的な特徴は何であろうか。それは、近代科学の洗礼を受けた人間が書いたという点であり、また、文学的な想像力や他人からの伝聞に基づいて書かれたものではないという点である。
 前章で概観したように、スウェーデンボルグに死後の世界の扉が開かれたのは一七四五年、彼が五七歳のときであった。以後、ロンドンで客死するまでの二七年間、彼は自然界と霊界とに同時に住み、生きながらにして前人未踏の世界へ分け入り、その未知の世界をあますところなく記録したのである。
 バルザックはスウェーデンボルグをテーマにした小説『セラフィタ』の中で、作中人物をしてこう語らしめた。「スウェーデンボルグが案内役の天使に連れられて昇ってゆく最初の旅の描写は崇高で、クロップシュトックやミルトンやタッソーやダンテの叙事詩をさえ、神が地球と太陽とを引き離した距離ほどに、凌駕(りょうが)しているとも云えるでしょう」(蛯原徳夫訳、角川文庫)
 また、今世紀最大の小説家のひとりと称されるJ・L・ボルヘスは、隠喩の体系を用いる他の神秘主義者の著作と比較して、「スウェーデンボルグの著作にはそのようなものはまったく存在しない。彼の作品は、見知らぬ土地を旅し、その様子を冷静な態度で綿密に描きだしてゆく旅行者の記録を思わせる」(『ボルヘス、オラル』木村榮一訳、水声社)と述べているのである。」(高橋和夫『スウェーデンボルグの思想』)

「(スウェーデンボルグは)偉人であり,論議の余地のない教養人であった。強靭な数学的知能の持ち主であり、いとも敬虔で、最高の天使的性格の持ち主であった。私には美しくて、慕わしく、しかも悲劇的人物のように思われる。…彼の著作には誰よりも多くの真理が表明されている。」(イギリスの歴史家・評論家トマス・カーライル)

「私はスウェーデンボルグをどのカテゴリーに入れてよいかわからない。…哲学者,見者,それとも神秘家なのか。これらのすべてだ、と私は思う。彼はみずからの個人的体験の基礎をふまえて現代の臨死体験の発見したものを先取りしているようだ。彼が多くのことを語り得たのは、真にまったく異例なことなのだ。臨死体験をした人は本質的に死の入口をかいま見たにすぎない。スウェーデンボルグは死という家全体を探索したのだ。」(アメリカの心理学者、国際臨死研究協会の共同創設者ケネス・リング )

「なぜスウェーデンボルグは綿密な吟味に値するのだろうか。それは偉大な詩人や散文作家たちが彼から自由にその思想を借り受けてきたという事実があるからだ。そのリストは長い。…まず、彼の霊的な直系であるブレイク、次にスウェーデンボルグの熱烈な読者だったゲーテ、そしてエドガー・アラン・ポー、ボードレール、バルザック、ミツキエヴィチ、エマソンと続く。さらにリストはドストエフスキーまで続くが、彼の作品の中に登場するスヴィドリガイロフ(『罪と罰』)や、ゾシマ長老の説教(『カラマーゾフの兄弟』)に、私たちはスウェーデンボルグの反映を見出す。」(リトアニア系ポーランド人の詩人、作家、エッセイスト、翻訳家チェスワフ・ミウォッシュ)

「其上(そのうえ)彼はシュエデンボルグがどうだとかこうだとか云って、無学な私を驚かせました。」(夏目漱石『こころ』)

「 彼(スウェーデンボルグ)の心は余の構想力を越えた心であった。…スウェーデンボルグから完全な真理を得ようと欲する者は躓くであろう、しかし真の学者的謙遜と基督信徒的畏敬とをもって彼のもとに行く者は、余は疑わない、大いなる祝福を受けて出で来るであろう。…あの著しい人の余の思想に及ぼした影響は常に健全であった。」(内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』)

「我は「スウェーデンボルグ」の著述の或るものを読みて大なる喜びを感ず。彼の教説の多くは受くるる能わずいえども、彼は聖書の最も難しき個所の多くを解明するに大いに我を助けくるなり。彼は偉大なる人、愛すべき人、疑いなく力強き思想家なり。彼は多くの者には神秘的なり。しかし彼の精神を理解する人々には、1メソジスト牧師の我に述べる如くに、「気狂い」a crazy にはあらず。」(内村鑑三、1885年4月19日付、新渡戸稲造に宛てた書簡)

「スウェーデンボルグは愛の人である。世の人は,彼の不思議な超人間的な経験のみを知って、愛の使徒であることを知らない。…多くの人が,この愛の賢人を理解しないで、いたずらに異端視することは、文明にとって最大の損失である」(内村と共に「日本を代表する二大クリスチャン」と目される賀川豊彦)

エリザベス・キューブラー・ロス~「死」に関する科学的な認知を切り開いた精神科医(1926〜2004年)。終末期研究の先駆者として知られ、彼女が切り開いた終末期医療は世界中の多くの医学部で必修科目となっています。その著書『死ぬ瞬間』(1969年)は世界的なベストセラーになるとともに、死生学の基本テキストとして世界中で読み継がれています。
 特に「死の受容プロセス」を科学的に捉え、次のような5段階モデル(キューブラー・ロス・モデル)で表現しています。
第1段階:否認と孤立(denial & isolation)
 自らの命が危機にあり、余命があとわずかである事実に衝撃を受け、それを頭では理解しようとするが、感情的にその事実を否認(逃避)している段階です。
第2段階:怒り(anger)
 自分が死ぬという事実は認識できたが、「どうして悪いことをしていない自分がこんなことになるのか」「もっと悪いことをしている人間がいるじゃないか」というような怒りにとらわれる段階です。
第3段階:取り引き(bargaining)
 信仰心がなくても神や仏にすがり、死を遅らせてほしいと願う段階です。
第4段階:抑うつ(depression)
 「ああ、これだけ頼んでもダメか」「神も仏もないのか」というように、自分なりに神や仏に祈っても、死の回避ができないことを悟る段階です。
第5段階:受容(acceptance)
 それまでは、死を拒絶し、なんとか回避しようとしていたが、生命が死んでいくことは自然なことだという気持ちになる段階です。 
 さらにキューブラー・ロスは死への過程のみならず、死後の世界に関心を向けるようになりました。そのきっかけは自分の担当していた患者が死に直面する時に幽体離脱を経験しており、離脱中の描写があまりに正確だったことから、魂の存在を認めるに至ったと言います。彼女自身も幽体離脱を体験し、霊的存在との交流などを著書や講演で語っており、こうした臨死体験は『死後の真実』(1991年)、『「死ぬ瞬間」と臨死体験』(1995年)などで述べられています。

●『死ぬ瞬間』(E・キュ-ブラ-・ロス、読売新聞社)
 キュ-ブラ-・ロスは、死にゆく人々(=末期患者)との深い会話を通じて、延命一辺倒の現代医療は人間らしい「幸福な死」とは相いれないことを痛感し、末期医療のあり方に初めて鋭い疑問を突き付けました。実際、多くの医師が本書を読んで衝撃を受けており、ベストセラ-『病院で死ぬこと』を著わしたホスピス医の山崎章郎もその1人です。

【科学と非科学のはざま】(東京大学文科前期2019年度出題)
 「カオスの縁(ふち)」という言葉をご存知だろうか?この「カオスの縁」とは、一九六〇年代から行われているセル・オートマトンと呼ばれるコンピュータ上のプログラムを使った研究が端緒となり提唱された概念である。とても大雑把に言えば、二つの大きく異なった状態(相)の中間には、その両側の相のいずれとも異なった、複雑性が非常に増大した特殊な状態が現れる、というようなことを指している。
 身近なイメージで言えば、“水”を挙げられるだろうか。ご存知のように、水は気体・液体・固体という三つの形態をとる。たとえば気体の水蒸気は、水分子の熱運動が大きくなり、各分子が分子同士の結合力の束縛から放たれ、空間の中で自由気ままに振舞っている非常に動的な姿である。一方、氷は水分子同士が強固に結合し、各分子は自身が持つ特性に従って規則正しく配列され、理にかなった秩序正しい形を保っている静的な状態だ。
 その中間にある液体に、いわゆる“水”は、生命の誕生に大きく貢献したと考えられる、柔軟でいろんな物質と相互作用する独特な性質を多数持っている。水蒸気とも氷ともかなり異なった特性である。この“水”の状態で水分子が存在できる温度範囲は、宇宙のスケールで考えるなら、かなり狭いレンジであり、実際“水”を湛(たた)えた星そうそう見つからない。巨視的に見れば“水”は分子同士が強固に束縛された氷という状態から、無秩序でカオス的に振舞う水蒸気という状態への過渡期にある特殊な状態、すなわち「カオスの縁」にある姿と言えるのかもしれない。
 この「カオスの縁」という現象が注目されたのは、それが生命現象とどこかつながりを感じさせるものだったからである。生き物の特徴の一つは、この世界に「形」を生み出すことだ。それは微視的には有機物のような化学物質であり、少し大きく見れば、細胞であり、その細胞からなる我々人間のような個体である。そして、さらに巨視的に見れば、その個体の働きの結果できてくるアリ塚であったり、ビーバーのダムであったり、東京のような巨大なメガロポリスであったりする。
 しかし、こういった生物の営みは、自然界ではある意味、例外的なものである。何故なら、この世界は熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)に支配されており、世界にある様々な分子たちは、より無秩序に、言葉を変えればカオスの方向へと、時間と共に向かっているはずだからである。そんなカオスへ向かいつつある世界の中で、「形あるもの」として長時間存在できるのは、一般的に言えば、それは構成する原子間の結合が極めて強いものであり、鉱物や氷といった化学的な反応性に乏しい単調な物質が主なものである。
 ところが、生命はそんな無秩序へと変わりつつある世界から、自分に必要な分子を取り入れ、そこに秩序を与え「形あるもの」を生み出していく。その姿はまるで「カオスの縁」にたたずみ、形のないカオスから小石を拾い、積み上げているかのようである。また、その積み上げられる分子の特徴は、鉱石などとは違い、反応性に富んだ物質が主であり、“不動”のものとして作り出されるのではなく、偶発的な要素に反応し、次々に違う複雑なパターンとして、この世に生み出されてくる。そして、それらは生命が失われれば、また形のない世界へと飲み込まれ、そこへと還(かえ)っていくのだ。それは分子の、この世界における在り方という視点で考えれば、“安定”と“無秩序”の間に存在する、極めて特殊で複雑性に富んだ現象である。
 また、生命の進化を考えてみよう。進化は、自己複製、つまり「自分と同じものを作る」という、生命の持続を可能とする静的な行為と、変異、つまり「自分と違うものを作る」という、秩序を破壊する、ある種、危険を伴った動的な行為の、二つのベクトルで成り立っている。現在の地球上に溢(あふ)れる、大きさも見た目も複雑さもその生態も、まったく違う様々な生命は、その静的・動的という正反対のベクトルが絶妙なバランスで作用する、その“はざま”から生まれ出てきたのだ。
 声明は、原子の振動が激しすぎる太陽のような高温環境では生きていけないし、逆に原子がほとんど動かない絶対零度のような静謐(せいひつ)な結晶の世界でも生きていけない。この単純な事実を挙げるまでもなく、様々な意味で生命は、秩序に縛られた静的な世界と、形を持たない無秩序な世界の間に存在する、何か複雑で動的な現象である。「カオスの縁」、つまりそのはざまの空間こそが、生命が生きていける場所なのである。
 「生きている」科学にも、少しこれと似た側面がある。科学は、混沌(こんとん)とした世界に、法則やそれを担う分子機構といった何かの実体、つまり「形」を与えていく人の営為と言える。たとえば、あなたが街を歩いている時、突然、太陽がなくなり、真っ暗になってしまったとする。一体、何が起こったのか、不安に思い、混乱するだろう。実際、古代における日食や月食は、そんな出来事だった。不吉な出来事の予兆とか、神の怒りとして、恐れられてきた歴史がある。
 しかし、今日では日食も月食も物理法則により起こる現象であることが科学によって解明され、何百年先の発生場所、その日時さえ、きちんと予測することができる。それはある意味、人間が世界の秩序を理解し、変わることのない“不動”の姿を、つかんだということだ。何が起こったのか訳が分からなかった世界に、確固とした“形”が与えられたのだ。
 一方、たとえばガンの治療などは、現在まだ正答のない問題として残されている。外科的な手術、抗ガン剤、放射線治療、こういった標準治療に加えて、免疫療法、鍼灸(しんきゅう)、食事療法など代替医療と呼ばれる療法などもあるが、どんなガンでもこれをやれば、まず完治するというような療法は存在しない。そこには科学では解明できていない、形のはっきりしない闇のような領域がまだ大きく広がっている。しかし、この先、どんなガンにも効果があるような特効薬が開発されれば、ガンの治療はそれを使えば良い、ということになるだろう。
 それはかつて細菌の感染症に対して抗生物質が発見された時のように、世界に新しい「形」がまた一つ生まれたことを意味することになる。このように人類が科学により世界の秩序・仕組みのようなものを次々に明らかにしていけば、世界の姿は固定され、新たな「形」がどんどん生まれていく。それは人類にもたらされる大きな福音だ。
 しかし、また一方、こんなことも思うのだ。もしそうやって世界の形がどんどん決まっていき、すべてのことが予測でき、何に対しても正しい判断ができるようになったとして、その世界は果して、人間にとってどんな世界なのだろう?生まれてすぐに遺伝子診断を行えば、その人がどんな能力やリスクを持っているのか、たちどころに分かり、幼少時からその適性に合わせた教育・訓練をし、待ち合わせた病気のリスクに合わせて、毎日の食事やエクササイズなども最適化されたものが提供される。結婚相手は、お互いに遺伝子型の組合せと、男女の相性情報の膨大なデータベースに基づいて自動的に幾人かの候補者が選ばれる。
 科学がその役目を終えた世界。病も事故も未知もない、そんな神様が作ったユートピアのような揺らぎのない世界に、むしろ「息苦しさ」を感じてしまうのは、私だけであろうか?
 少なくとも現時点では、この世界は結局のところ、「分からないこと」に覆われた世界である。目をつぶって何かに、それは科学であれ、宗教であれ、すがりつく以外、心の拠(よ)りどころさえない。しかし、物理的存在としての生命が、「カオスの縁」に立ち、混沌から分子を取り入れ「形」を作り生きているように、知的な存在としての人間はこの「分からない」世界から、少しずつ「分かること」を増やし「形」を作っていくことで、また別の意味で「生きて」いる。その営みが、何か世界に“新しい空間”を生み出し、その営みそのものに人の“喜び”が隠されている。そんなことを思うのだ。
 だから、世界に新しい「形」が与えられることが福音なら、実は「分からないこと」が世界に存在することも、また福音ではないだろうか。目をつぶってしがみつける何かがあることではなく。
 「分からない」世界こそが、人が知的に生きていける場所であり、世界が確定的でないからこそ、人間の知性や「決断」に意味が生まれ、そして「アホな選択」も、また許される。いろんな「形」、多様性が花開く世界となるのだ。それは神の摂理のような“真実の世界”と、混沌が支配する“無明の世界”とのはざまにある場所であり、また「科学」と、まだ科学が把握できていない「非科学」のはざま、と言い換えることができる空間でもある。
(中屋敷均「科学と非科学のはざまで」 『本』二〇一八年七月号 講談社)
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