「生命倫理と死生学の現在⑧」 ~人は何のために生まれ、どこに向かっていくのか~

記事
学び
(3)「遺伝子医療」と「人格的アイデンティティー」の相克
②そもそも「私」とは一体何なのか

「クローン」(clone)~羊の成獣の乳腺から取り出した細胞を使い、遺伝子が親と全く同じ「クローン羊」ドリ-が1996年7月に世界で初めて誕生しました。これは従来の受精卵クローンに対する体細胞クローンと呼ばれる技術であり、受精卵クローンがどんな大人になるか分からないといった不安定さを抱えていたのに対して、成体の体細胞クローンでは遺伝形質の99%以上を受け継ぐと考えられています。また、牛の受精卵クローンの場合、1個の受精卵が16~32細胞に細胞分裂した割球からクローン牛を作るので、自ずと数に限りがありますが、体細胞クロ-ンでは事実上制限は無くなると言ってよいのです。こうしたクロ-ン技術によって、オスなしで産乳能力の高い家畜の大量コピ-が可能となり、さらに医薬品原料の生産能力の高い動物を大量にコピーできるだけでなく、動物の個体差がなくなり、医薬品の安定生産が可能となります。また絶滅の危機にある動物の複製も可能になるのですが、ドリ-の生みの親であるウィルムット博士は、クローン技術は諸刃の剣だと強調しています。人間への応用は技術的に可能であり、クロ-ン人間阻止への国際的な規制が必要であるというのです。
 かくして1998年11月には国連教育科学文化機関(ユネスコ)総会で、人間の遺伝子研究に関する初の政府レベルの国際倫理方針「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」が全会一致で採択されました。宣言は全25条で、第1条において人間の遺伝情報の総体であるヒトゲノムを「象徴的な意味で人類の遺産」であるとして、その研究の重要性を認める一方、遺伝的な特徴を理由にした差別や遺伝情報をそのまま経済的利益の対象とすることを認めず、その売買などを禁じたほか、クローン人間作りも「人間の尊厳に反し、許されない」と明言しました。さらに遺伝子研究や遺伝子診断、遺伝子治療はリスクと利益を評価した上で行い、事前に対象者のインフォームド・コンセントが必要であるとしており、秘密の保持や知らないでいる権利も求めています。宣言は条約と異なって拘束力はありませんが、国際機関での合意としての影響は大きいと言えます。
 実際には、体細胞クローン人間は大人のコピーを即製する技術ではないので、「最強の兵士のクローンを集めた完璧な軍隊」などといった構想は現実性がありません。クローンは遺伝的に同一の個体のことで、体細胞クローン人間は「年の離れた一卵性双生児」に当たると言えます。当然、遺伝的には同じでも、育った環境や経験が違ってくれば、外見や性格は自ずと違ってくることになります。さらにクローン動物の成功率は低く、死産・流産が多いのですが、その原因も不明であり、クローンマウスで約2%とされます。

「再生医学」(regenerative medicine)~ヒトの細胞や遺伝子で組織や臓器を作り、治療に活用する医学のことで、将来の医療を大きく変えると期待されています。その種となる細胞として、受精卵から取り出した胚性幹(ES)細胞(Embryonic Stem Cell、万能細胞)が注目されており、国際的に研究が盛んです。日本では2003年5月に初めてES細胞作成に成功し、骨や神経に成長する間葉系幹細胞を骨髄から得て行う研究が中心となっており、これらが広く臨床に使われ始めると、心臓病やけが、やけどなどの治療が一変すると言います。さらに大きな注目を集めているのが、山中伸弥教授がその研究でノーベル賞を受賞した多能性幹(iPS)細胞(induced Pluripotent Stem Cell)です。ES細胞は受精後6、7日目の胚盤胞から細胞を取り出し、それを培養することによって作製されるため、どんな臓器にも分化できますが、倫理上の問題が残ります。一方、iPS細胞は皮膚や血液など、採取しやすい体細胞を初期化して作ることができますので、倫理上の問題がありません。また、自分自身の体細胞なので、拒絶反応の問題も無くなります。
 産業界もこうした技術的進展と経済的可能性に注目しており、今や世界のバイオ産業市場の年平均成長率は7%に上っていて、その勢いは日本でも同様で、2019年に内閣府統合イノベーション戦略推進会議が策定した「バイオ戦略」では、2030年に世界最先端のバイオエコノミー社会を実現することが掲げられました。

【自分論】(東京大学文科前期2015年度出題)
 昨日机に向かっていた自分と現在机に向かっている自分、両者の関係はどうなっているのだろう。身体的にも意味的にも、昨日の自分と現在の自分とが微妙に違っていることは確かである。しかし、その違いを認識できるのは、その違いにもかかわらず成立している不変の自分なるものがあるからではないか。こういった発想は根強く、誘惑的でさえある。だが、このような見方は出発点のところで誤っているのである。このプロセスを時間的に分断し、対比することで、われわれは過去の自分と現在の自分とを別々のものとして立て、それから両者の同一性を考えるという道に迷いこんでしまう。過去の自分と現在の自分という二つの自分があるのではない。あるのは、今働いている自分ただ一つである。生成しているところにしか自分はない。
 過去の自分は、身体として意味として現在の自分のなかに統合されており、その限りで過去の自分は現在の自分と重なることになる。身体として統合されているとは、たとえば、運動能力に明らかである。最初はなかなかできないことでも、訓練を通じてわれわれはそれができるようになる。そして、いったん可能となると、今度はその能力を当たり前のものとしてわれわれは使用する。また、意味として統合されているとは、われわれが過去の経験を土台として現在の意味づけをなしていることに見られるとおりである。現在の自分が身体的、意味的統合を通じて、結果として過去の自分を回収する。換言すれば、回収されて初めて、過去の自分は「現在の自分の過去」という資格を獲得できるのである。
 統合が意識されている場合もあれば、意識されていない場合もある。したがって、現在の自分へと回収されている過去の自分が、それとして常に意識されているとは限らない。むしろ、忘れられていることの方が多いと思われる。二十年前の今日のことが記憶にないからといって、それ以前の自分とそれ以後の自分とが断絶しているということにはならない。第一、二十年前から今日現在までのことを、とぎれることなく記憶していること自体不可能である。重要なのは、何を忘れ、何を覚えているかである。つまり、自分の出会ったさまざまな経験を、どのようなものとして引き受け、意味づけているかである。そして、そのような過去への姿勢を、現在の世界への姿勢として自らの行為を通じて表現するということが、働きかけるということであり、他者からの応答によってその姿勢が新たに組み直されることが、自分の生成である。そしてこの生成の運動において、いわゆる自分の自分らしさというものも現れるのである。
 この運動を意識的に制御できると考えてはならない。つまり、自分の自分らしさは、自らがそうと判断すべき事柄ではないし、そうあろうと意図して実現できるものでもない。具体的に言えば、自分のことを人格者であるとか、高潔な人柄であるとか考えるなら、それはむしろ、自分がそのような在り方からどれほど遠いかを示しているのである。また、人格者になろうとする意識的努力は、それはどれほど真摯なものであれ、いや、真摯なものであればあるほど、どうしてもそこには不自然さが感じられてしまう。ここには、自分の自分らしさは他人によって認められるという逆説が成立する。このことは、とりわけ意識もせずに、まさに自然に為される行為に、その人のその人らしさが紛(まご)う方なく認められるという、日常の経験を考えてみても分かるだろう。
 自分とはこういうものであろうと考えている姿と、現実の自分とが一致していることはむしろ稀である。それは、現実の自分とはあくまで働きであり、その働きは働きの受け手から判断されうるものだからである。しかし、そうであるならば、自分の自分らしさは他人によって決定されてしまいはしないか。ここが面倒なところである。自分らしさは他人によって認められるものではあるが、決定されるわけではない。自分らしさは生成の運動なのだから、固定的に捉えることはできない。それでも自分らしさが認められるというのは、自分について他人が抱いていた漠然としたイメージを、一つの具体的行為として自分が現実化するからである。しかし、その認められた自分らしさは、すでに生成する自分ではなく、生成する自分の残した足跡でしかない。
 いわゆる他人に認められる自分の自分らしさは、生成する自分という運動を貫く特徴ではありえない。かといって、自分で自分らしさをとらえることもできない。結局、生成する自分の方向性などというものはないのだろうか。
 生成の方向性は生成のなかで自覚される以外にない。ただこの場合、何か自分についての漠然としたイメージが具体化することで、生成の方向性が自覚されるというのではない。というのは、ここで自覚されるのは依然として生成の足跡でしかないからである。生成の方向性は、棒のような方向性ではなく、生成の可能性として自覚されるのである。自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか。この「……でない」という虚への志向性が現在生成する自分の可能性であり、方向性である。そして、これはまさに自分が生成する瞬間に、生成した自分を背景に同時に自覚されるのである。
 このような可能性のどれかが現実のなかで実現されていくが、それもわれわれの死によって終止符を打たれる。こうして自分の生成は終わり、後には自分の足跡だけが残される。
 だが、本当にそうか。なるほど、自分はもはや生成することはないし、その足跡はわれわれの生誕と死によってはっきりと限られている。しかし、働きはまだ生き生きと活動している。ある人間の死によって、その足跡のもっている運動性も失われるわけではない。つまり、残された足跡を辿る人間には、その足の運びの運動性が感得されるのであり、その意味で足跡は働きを持っているのである。われわれがソクラテスの問答に直面するとき、ソクラテスの力強い働きをまざまざと感じるのではないか。
 自分としてのソクラテスは死んでいるが、働きとしてのソクラテスは生きている。生成する自分は死んでいるが、その足跡は生きている。正確に言おう。自分の足跡は他人によって生を与えられる。われわれの働きは徹頭徹尾他人との関係において成立し、他人によって引き出される。そして、自分が成立することを止めてからも、その働きが可能であるとするならば、その可能性はこの現在生成している自分に含まれているはずである。そのように、自分の可能性はなかば自分に秘められている。この秘められた、可能性の自分に向かうのが、虚への志向性としての自分の方向性である。
(池上哲司『傍らにあること――老いと介護の倫理学』)
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