今、芸能界で起こっていることと、小説やシナリオを書く上での問題 【アメリカの夜】

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コラム
物語を書くのは楽しいものだ。

しかし、楽しいだけではない。ときに、苦痛で投げ出したいこともある。
これは映画作りに似ているし、旅にも似ている。

「映画作りは航海に似ている。最初は希望とともに船出する。
しかし途中から港に到着することだけが目標になる」

私の好きなトリュフォー監督の「アメリカの夜」という映画に出てくるセリフだ。
ものを作ることは一般にそうなのだが、楽しいだけではないのだ。
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この「アメリカの夜」という映画は、主人公は映画監督で、ある映画の撮影中に起こるさまざまな事件を描いている。
主演女優がいなくなったかと思うと妊娠していたり(妊娠したジャクリーン・ビゼットの美しさは特筆したいところだ)、わがままなスタッフがいたり、撮影がスケジュール通り進まず、予算がなくなったり、リテイクをやりすぎて主演俳優が自信を失くして駆け落ちしたり、というさまざまな事件が起こる。

それで主役の監督(トリュフォー自身)は苦悩し、その映画に関して希望は打ちひしがれ、もう、とにかく、撮影が終わってくれればいいという気分になって来る。観ているこちらも、共感の嵐だ。

この映画は、群像劇で、さまざまな俳優、スタッフのトラブル、問題が描かれる。
もともと、人付き合いが苦手な、常識がない、わがままでエゴに満ちた人たちが、この業界の主な住人だ。
まともに社会生活していける人たちなら、普通の生活を送っているはずだ。そういうことが出来ないはぐれ物の人達が、映画撮影という短い時間枠の中で、ここぞとばかり自分の存在理由をアピールするためにそのエゴをぶつけ合うから、混乱して当然なのである。
昨今の歌舞伎界や芸能人のゴシップも皆、そういう人たちだから起こっていることだ。
出演映画や舞台も流れたようだ。よくあることだ。

そういう人たちを統制しなくてはならない映画を作るのは本当に大変だな、と思わされ、この映画の主役の監督自身も「この映画は失敗で二度と映画なんか撮りたくない」というところまで追い詰められる。
この映画の素晴らしいところは、そのラストシーンだ。

そんな大きな問題を抱えながら、作品はストーリーも変更してやっとクランクアップの日を迎える。
始まった撮影はかならずラストを迎えるのである。
そこでの打ち上げで、俳優やスタッフたちの表情は生き生きとして「また一緒にやろうな」と口々に言いながら解散して行くのだ。

エゴに満ちた人間たちがまた集まれば、同じような苦難が待っていることを知っていても、ともに何かを作り上げたときの感激には変えられない。
それがたとえ、最初に目指した港ではなかったとしても、だ。

私達、ものを作る人間、何かを書く人間は、暗く苦しいトンネルの先にある光の眩しさ、その喜びを知っている。
だから闇の中でもそのかすかに漏れる光を目指して書くのである。

ものを書く作業は自分と向かい合う作業で、孤独という他はない。
しかし、その孤独は、自分だけのものではない。
書き手、語り手は皆同じような孤独を持ち合わせている。

映画の撮影所などが素晴らしいのは、そのようなエゴと孤独に満ちた人たちでも、時にともに酒を飲んだり、本音をぶつけあったりする場があるということだ。

私達、書き手となると少し事情が違う。
どこにも仲間はいないとさえ思えてくる。
昔は、文壇酒場などというものがあったが、今はそういうものも無くなった。
さらに遠隔の作業が多くなって、同じ道を歩く人たちの姿も見えなくなっている。

しかし、悩みをぶつけ合い、ときに刺激しあって、ときによりモチベーションを高めるような場は作ろうと思えば作れるのではないだろうか。
私は、たとえばシナリオ作りの現場において、企画とか、作品のブレストの時間が一番楽しい。
そこは船出前の希望に満ちているから。
港で船出を迎える船員たちが互いの顔を見てさらに高揚するような感じだ。
また、船出は嵐にも見舞われるが、仲間が助け合って乗り越えていくのは、ハッピーな物語の常道だ。

今のネット上の物書きの世界に、そういう場を作れないか、と思っていろいろ試行錯誤している。そういう飲み屋には、プロもアマチュアもいて侃々諤々やっている。
私は、さしずめバーのマスターに収まって、にやにやしながらそうした議論を見ていたい。









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