「弘法大師」(茨城県城里町での言い伝え)
むかし、むかし、一人のお坊さんが、仏教を広めるため、各地を歩いていました。そして、常陸国にもきました。あるとき、徳倉(とくら。現在の茨城県城里町)を歩き日が暮れ、ある農家に「泊めて下さい」とお願いし、泊めてもらいました。農家の主人は「どうぞ」とお坊さんを迎えました。
この家には一人の娘がいて、お坊さんに好意を持ちました。それを知ったお坊さんは、その後、自分の姿を彫って、馬槽(うまぶね)の中に収めて立ち去りました。娘さんはその像を、お坊さんと思い大切にし、徳藏姫(とくらひめ)といわれるようになりました。
このお坊さんは、笠間の古山を通りました。とてものどがかわいて、農家のお婆さんに「水をいっぱい下さい」とお願いしました。お婆さんは、なかなか戻ってきませんでした。
「この辺にはいい水がないので、遠くまで行って、いい水を汲んできました。どうぞ」とすすめました。
お坊さんは、その気持ちがうれしく、御礼をいいました。そして、錫杖(しゃくじょう)で土手ぎわを突くと清水がこんこんと湧き出ました。そして、どんな日照りにも水のかれることはありませんでした。ところで、このお坊さんは弘法大師という真言宗を開いた偉いお坊さんでした。
「竪破山の太刀割石」(茨城県日立市での伝承)
十王町(現在の茨城県日立市)にある竪破山(たつわれさん)に、平安時代のはじめ、戦のために北に向かう途中で、坂上田村麻呂が泊まりました。夢の中に神さまがあらわれ、「お堂を建てて、戦勝を祈りなさい」といわれました。田村麻呂はお堂を建て、北へ旅立ち、戦に勝ちました。
平安時代の終わりごろ、奥州へ戦いに行く源義家は、坂上田村麻呂の話を聞いて、勝利を祈るために、竪破山に登り、お堂に参拝しました。
その後、竪破山に1泊した義家の枕元に、白雲に乗った神さまがあらわれ、「これは金剛でつくった太刀です。どんな強いものも破り、堅いものも砕きます。あなたが、これを持参していれば、戦は勝利をおさめるでしょう」といいました。
義家が夢から覚めると、枕元に1つの太刀がありました。義家は大変喜びました。そこで、太刀の力を試すため、かたわらにあった大きな石に切りつけました。石は見事に割れ、1つは立ち、1つは割れました。
義家はうれしさのあまり、神さまに何回も頭を下げ、元気100倍、奥州の戦乱をしずめるため、竪破山を後にしました。この石は、太刀割石といわれ、今でも昔のままの形で残っています。