「扉に手を挟まれた黄門様」(茨城県笠間市での言い伝え)
天下の副将軍、水戸光圀(徳川光圀)は暇を見つけては、藩内(水戸藩内)のあちこちを回って村の様子などを見ました
ある時、稲田(現・茨城県笠間市)の稲田神社に参拝しました。そのころ、稲田神社はかなり古く、あちこちがいたんでいました。
黄門様は中が見たくなり、扉の隙間から中を見るために、手を差し入れました。そのとたん、扉が急にしまってしまいました。
黄門様があっと思っている間のできごとで、声を出す暇もありませんでした。家来たちは、殿様が扉にはさまれたのですから大変です。扉をあけようとしたり、黄門様の手をひっぱろうとしたり、それはそれで大変なことでした。
「これは困ったことです。もう少し、ごしんぼうください」と家来たちは扉をあけようとしましたが、あきません。
黄門様もあまりの痛さに、「痛い痛い」を繰り返しました。家来たちが、あれよこれよと扉を引いたり、押したりしているうちにやっとあきました。
とにかく、このことは大変なことでした。好奇心をもって「何が入っているのかな」とのぞいたのが間違いだったようです。
稲田神社は奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)が祭神で、黄門様はその霊験に驚かれ、自分のそそっかしさをあやまり、さっそく、日月四神(にちげつししん)の幟(のぼり)を寄進したそうです。
注:奇稲田姫命は、日本神話に登場する女神。ヤマタノオロチ退治の説話で登場する。
「手接神社の河童」(茨城県小美玉市での言い伝え)
戦国時代のお話です。芹沢(現・茨城県小美玉市)の城主・芹沢俊幹(せりざわとしもと)が館の前を流れる梶無川で馬に水を与えていると、馬が動かなくなりました。
俊幹が振り返ってみると、河童が馬の尻尾をつかまえていました。俊幹は河童に腕を離すように説得しましたが、河童が離さないので、俊幹は河童の腕を切り落としました。
館に帰った俊幹が馬の尻尾を見ると、河童の片腕が馬の尻尾をつかんでいました。俊幹は珍しいものなので、床の間に飾りました。
ところが、夜になって、河童が現れ、「きょうは申し訳ないことをしました。片腕がないと泳げませんので、どうか返してください」と謝りました。
俊幹は「今さら、切られた腕は返しても、元にはもどらないよ」と言いました。河童は「私は切られた腕をつなぐ薬を持っています。お返しいただければ、それを伝授いたします」と涙を流して頼みました。
俊幹は河童に腕を返し、その薬の伝授を受け、それを家伝薬として伝えておきました。河童はお礼として、毎日、俊幹に魚を届ける約束もしました。
「もし、魚が届かなくなったら、私が死んだと思ってください」と言い、翌日から毎朝、庭の梅の木に生魚がかかるようになりました。
ある年、魚が届かなくなり、心配した俊幹は家来に河童を探させました。すると河童の死骸は上流の与沢で見つかりました。
俊幹は手接神社(てつぎじんじゃ)を創建し、河童の霊を祀りました。それ以後、手の神様としてはもちろん、疫病神として信仰され、平癒のお礼として手形を奉納されるようになりました。なお、河童のいた梶無川を手奪川(てうばいがわ)、橋を手奪橋(てうばいばし)と呼んできました。