「鰐ヶ淵の孝行息子」(「打ち出の小槌」の話、茨城県大子町での言い伝え)
むかしむかし、袋田村(現在の茨城県大子町)の鰐ヶ淵の近くに年老いた父親と一緒に暮らす若者がいました。若者は父親を元気にさせようと、いつも鰐ヶ淵で大きな鯉を釣って父親に食べさせていました。
あるとき、いつものように大きな鯉を探していると、水の中から白いひげを生やした老人が現れて言いました。
「親孝行なお前にお金をやりたいが、一銭も持ちあわせない。この小槌をあげよう。困ったことがあったら振ってみなさい」といって、姿を消しました。
若者は不思議に思いながらお礼を言って家に戻りました。でも、どんなに苦しくても、若者は小槌を振ることなく、一生懸命にこらえました。
やがて、父親は若者に見取られて亡くなりましたが、若者はお葬式をするお金がなく、近所の人を呼ぶことができません。
「そうだ。父のために小槌を振ってみよう」と、決心しました。そして、小槌を振ると、葬式に必要な膳椀から御馳走、お金まで出て来て、葬式をすることが出来ました。村の人たちは水神様を祀りました。
その後、村の人たちがお祝いや葬式などで、膳椀が必要になると鰐ヶ淵の水神様から借り受け、用が済むと必ず返しました。そして、このことは永く続きました。
この若者は、やがて長者になり、久米村薬谷(現在の茨城県常陸太田市)に行って裕福な生活をしました。
「鎌倉に使いした犬」(茨城県常陸太田市での伝承)
鎌倉に幕府があった頃のお話です。上桧沢村(旧美和村。現在の茨城県常陸大宮市)から、鎌倉に急ぎの要件ができ、村から使いを出すことになりました。村の人々は相談しましたが、なかなかきまりません。その時、
「満福寺の犬がいいよ、よくお坊さんの使いをしているから」と誰かいい、住職さんも「よいだろう、きっとやってくれますよ」といい、きまりました。
犬は首に文箱(ふばこ)をつけ、村人に見送られ、使いに出ました。犬は途中休むことなく、走りました。そして、鎌倉につき、責任を果たし、帰りも休まず、満福寺に向かって、一目散に走りました。しかし、途中で息も切れ、あえぎながら、村に戻ってきました。
そして、満福寺に入る寸前に、犬は悲しい声をあげてなき、死んでしまいました。村の人々は犬に感謝し、墓を建てて供養しました。
その犬にちなんだ地名もあります。犬が泣きながら通過した所を「ナキダイラ」、犬の死体を葬り、杉の木を植えた場所を「犬塚」、犬が首につけていた文箱を埋めた土地を「箱地」(はこち)といっています。