【ショートショート】「社畜のいつもより遅い出勤」

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改札を出て、数歩歩いたとこで足が止まる。動こうとしても全身が硬直している。

「何してんだよ。」

背中に衝撃を受ける。体がつんのめり、勝手に足が出て数歩歩く。右肩の後ろが痛い。前を向くと、スーツの上にロングコートを羽織った人がいる。こちらを睨んでいる。少ししてから視線を外し、右に折れて歩いて行く。

その道筋を辿るように、沢山の人が横を通っていく。時折背後からぶつかる。

「邪魔邪魔。」

「っどくせぇな。」

押されるまま、同じ要領で前に進む。やがて体に痛みを覚える頻度が減り、完全に足が止まる。

革靴の足音が聞こえる。気にすると、その数が急速に際限なく増えていく。振り返ると、通勤中の人々が目の前で曲がっている。そのカーブは少しずつ膨らみ、迫ってきている。

喉の奥が詰まり、胸の辺りが冷える。瞼が震え、視界で光が瞬く。

顔が反対側を向き、車道の方に行こうとする。その動きに胴体と足が引っ張られる。

ガードレールに右手をつく。駅を見ないように俯きながら、ガードレールの礎石に座る。両手で顔を覆い、指の隙間から息を少しずつ吐く。耳の奥で心音がはっきりと鳴っている。

しばらくして両手を離す。汗で濡れている。右の掌にはガードレールの跡が残っている。視界で瞬いていた光が弱まっている。礎石とアスファルトの隙間に雑草が生えている。

尿意がして、直後に太股の裏に温かい感触が広がっていく。小便が脹ら脛を伝い、痒くなる。足元に水溜まりができて、数本の線に分かれながらガードレールの方に流れる。脹ら脛を搔く。

背後で車の行き交う音が聞こえる。左側からは、声が聞こえる。見ると、少し先の方で拡声器を持った若い男性が、駅に向かって何かを言っている。傍らには看板が置かれている。

「――もいます。やっと狭いゲージの中から出られたと思ったら無責任な飼い主に捨てられて、最後は密室で毒ガスによって――」

身を乗り出して覗き込むと、看板には様々な犬の写真が貼られている。その手前には透明なケースがあり、中には折られた紙幣がある。

その向こうでは、浮浪者のような格好の人が、地面に座り込んでエレキギターを弾いている。

体勢を戻し、また地面を眺める。小便は雑草の根元に吸い込まれ、途切れている。どこからか、「医療従事者の待遇改善を」という声も聞こえてくる。

靴音が鳴っている。増えないが、大きくなっていく。少しだけ視線を上げると、4本の足が見える。また喉の奥が詰まり、胸の辺りが冷える。今度は全身に悪寒が走り、寒気が内臓に染み込んでいく。吐き気が起こり、嘔吐する。涙で滲んだ目を擦ると、地面に吐瀉物はない。その代わりに、大きな泡を含んだ粘度の高い唾液が、口の端からゆっくりと地面に落ちていく。

視界に、革靴が入る。

「大丈夫ですか?」

顔を上げると、警察官がいる。片膝をついて目を合わせている。傍らには、別の警察官も立っている。

「私の声が聞こえたら返事をしてください。聞こえますか?」

「はい、聞こえます。」

袖で唾液を拭き、返事をする。

「救急車が必要そうですか?」

「いえ、大丈夫です。」

「職場への連絡はしましたか?」

「え?」

「お勤めの会社に、休むとか遅れるとかの連絡はしましたか?、まだだったら、とりあえず連絡した方がいいんじゃないですか?」

「してません。でも大丈夫です。」

鼓動が速まっている。周囲からの視線を感じる。

「あの、もの凄く体調悪そうですけど、どうしても休めない仕事なんですか?」

「はい。あの、ちょっと休んだらもう行きますから。」

しゃがんでいた警察官が立ち上がり、もう1人と何かを話す。歩道を行き交う会社員の人々が俺を見ながら歩いていく。捨て犬の殺処分を止めようとしている若い男性も、拡声器を構えながら、横目で俺を見ている。

再び、警察官の顔が目の前に来る。

「それじゃあ私たちは離れますね。だけど万が一の場合は遠慮なく救急車を呼んでくださいね。あともし仕事が辛くて仕方なかったら、ぜひ労働基準監督署に相談してみてくださいね。」

「はい、ありがとうございました。ご迷惑をおかけしました。」

何度も頭を下げていると、警察官たちがいなくなる。

(皆は、一生懸命働いていてるんだな。)

立とうとするが、体は動かない。地面に視線を向けると、小便が雑草の脇から流れ出ている。

そこで、一匹の蟻が溺れている。足を動かしているが、ただ水面を撫でるだけで回転もできていない。

足に力が入り、立ち上がって歩く。ポケットから財布を取り出し、様々な犬の写真が貼ってある看板の前のケースに1万円を入れる。

通勤中の人々に混ざって歩く。浮浪者の弾くエレキギターの音が、空間を切り裂いている。



いつの間にか、オフィスに到着している。ソファーで寝転びながらノートパソコンを触っている上司が、顔をしかめている。

「なんか臭えな。シャワーしに帰ったんだろ?」

「すいません。」

謝りながら自分のデスクに行き、椅子を引く。タイヤがカーペットについた窪みにはまる。屈んでデスクの下に顔を入れる。デストップパソコンのスリープモードを解除する。内蔵されているファンが音を立てて回り始める。むせながら体を起こし、椅子に座る。モニター台に落ちていた付箋を広い、モニターの縁に張り直す。画面のコードエディタにpreタグを書き込む。

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