「物事に対して自分で答えを導き出す時代!💜」🎾🚴‍♀️⚔️🏓⛳🤿🏸😎😍

記事
コラム
💎「自分で考える」という言葉は、魅力的なひびきを  
持っています。
しかし、「考える」と「技術」はニュアンスが違います。
どうも逆方向のようなと思われるかもしれませんが
そんなことはないのです。
私たちが知っている思考の達人たちは、
ごく普通の人に、考える技術を伝えようとしたのです。
情報量の過剰は、いいことなのです。
浅い水たまりに大きな船を浮かべることはできません。
情報に満ちた大海が必要なのです。
そこでこそ、自前の海図が有効なのです。
特別製のものでなくていいのです。
どこにでも漕ぎ出せる自分の身の丈に合ったものでいいのです。

自分で考える時代が始まっているのです。
「偏差値教育」、人工頭脳(コンピューター)の発達、情報の氾濫等
これらのすべては、人間が自分の頭を働かさなくても
やすやすとベルトコンベアーの上に寝そべったままでゆける
という時代を象徴しているように見えるのです。見えるだけなのです。
本を読まない、読んでもマンガかビジュアル雑誌の類。
文章は書かない、漢字を知らない、書いてもめちゃくちゃな日本語を書く。
話しない、議論ができない、
口を開けば「えっー」とか「うっそー」とかしか発しない。
ごく素朴な感情のレベルの言葉しか飛び出さないという若者の常態。
一番面白いのは、漫画人間と言われた「団塊の世代」が
自分たちの子供を「無思考世代」と読んでいることです。
確かに、より後の世代を叱咤し批判するのは、
激励をし、教育するというひとつの形ではあります。
自分がどんなにおぞましくても、それを棚に上げても
おぞましいことをした子供を叱らなければならない時はあるのです。
しかし、それは一時的な応急手段なのです。
常に正しいのは、事態を正確に把握して、物事に対処することなのです。
勉強不足、教養もない、今どきの大人が
若い世代をなめるような言い方をつづけていると
自分自身がゴミために投棄される対象になってしまいます。
ゆえに、私も含めた立派な大人よ若い人とともに学ぼうという事です。

個人が、実際に経験をして獲得する知識や技術は、数も範囲も小さい
限られたものにすぎません。
どんなに世界を駆け巡ったとしても、たかが知れたものに過ぎないのです。
「書物という世界」を介さないでどうして、
万人に通じる知識や技術を獲得することができましょうか!
学校で習得したこと、紙の上の知識や技術を馬鹿にしたり、役立たずという人をおおいに疑っていいのです。
情報化社会なので、自分が個人的に生で手に入れる情報など
本当に限られているのですから。

自分で考えるというのは、「思考の大衆化」と同じなのです。
他者に伝わる思考、他社の立場になって考えるという事です。
他者の事を自分のことのように考える事です。
つまりどういうことかと言いますと
現代は、人間一人一人が孤立化してしまい、他社の事に無関心時代
他者とコミュニケーションが成立しにくい時代なのです。
確かに、都会であれ、田舎であれ、隣の事にさえ無関心で過ごせるように
なっています。昔とは大きな様変わりです。
いいかえると、他者に無関心にふるまえる社会だからこそ
他者の立場にたってものを考えることができるという事です。
お互いに無関与で日常生活を送ることができるようになった社会だからこそ
他者の立場に立って、自分の判断で、物を考え抜く条件ができたと
言えるのではないでしょうか⁈

社会の富の細胞が、商品として現れる社会が資本主義であるといったのは
マルクスです。
生きて、人々の間を動く富は、商品という形をとるという事です。
情報化社会というと、何とはなしに高級そうな感じがします。
そうではないのです。かなり身近な社会のことなのです。
昔は、遠くにある店に買いに行くことなどありませんでした。
またその必要もなかったのです。
主婦の仕事もどんなに忙しくても単調であったと言って過言では
ないと思います。頭を働かせる必要はなかったのです。
しかし、今は違います。
商売はすべて情報合戦です。
一円でも安くと、しのぎを削っているのです。
その情報を、早く的確につかむかどうかで、一軒の家計はものすごく
違ってくるのです。家計だけではありません。
全ての分野で事情は、家計と全く同じ感覚になっているのです。

正確な情報を持つか持たないかは、
どんな分野でも、成否を決める重要なポイントになっています。
しかもその情報が日々刻々と変わるのです。
情報収集と、それに基づく的確な判断が要求されるのです。
💜他人の判断待ちの場合は、負けです!💜
自ずと自分で考え、判断をして行動するという態度が強制されている
時代に私たちは生きているのです。

こういう状況をさして、人々は情報に振り回されているという
人たちが存在します。
人間は、必要なものを必要な時に買えばいいのだ!という思考です。
これも確かに一理あります。
しかし、こういう生き方は、自分一人ならいいのですが
家族や子供に課すわけにはいきません。
ましてや誰にでもできることではありません。
よほどの変わり者か、旧世界の住民くらいのはずです。
社会全体が激しく静かに動いているからです。
今やコンピューターの驚異的な発展により
我々は情報化された社会の中に存在しているのです。

本当に能力のある人は、ほっておいてもやるべきことは
やるのです。
日本には、天才たちの教育機関はありません。
東大は、入るのが難しい大学ではあっても
特殊な才能を伸ばす教育がそこで行われているわけではありません。
できる子は、他の大学と同様に自分でやるだけなのです。
これは、かつても今も変わっていません。
日本の教育水準の高さは、実は、エリート教育を主眼に置かなかった
結果なのです。

問題なのは「暗記魔の天才」です。
日本社会で、長い間指導層を形成してきたのは、この人たちです。
「暗記魔の天才」たちとは、かなり初期の容量の小さいコンピューターと同じ
能力の人たちの事です。
インプットした情報を、忠実にアウトプットすることにたけた能力の持ち主たちです。したがって、代わり映えしないが、万事に手堅い人たちです。
先例・凡例主義者と言ってもいいと思います。
もちろんこういう人たちが必要でないとか、いなくなるというのは
間違っているのです。
しかし、出番はうんと小さくなると思います。
その大部分の役割を、コンピューターがやってくれるからです。
この情報化社会の中で、現在の若者たちが、過去の知識を頭から詰め込んで
活用するという旧来のやり方ではなく、異なるスタイルを
身に着けつつあるのは無理からぬことなのです。
したがって、それだけ自分で考える時間と空間の可能性が拡がった
個性的な時代の到来になっているのです。
人間の世の中がよりよくなろうとしている時代の到来なのです。

💎教養の人の時代がやってきているという事です。
専門は当然持つべきものです。当たり前のことですが....!
しかし、専門だけではやりおおせないという事です。
どんな専門にも対応できる「一般的能力」を身に着けることが肝心という事です。
問題は、スペシャリスト(一芸家)か、ジェネラリスト(多芸家)かという対立ではなく、スペシャリストがジェネラルな性格を常に要求され
そのための自己訓練をしておかなければならず
ジェネラリストは、常に、スペシャリストな性格を自己啓発するような
訓練をしていなければならないという事なのです。
私の専門は、これだから、そちらさまのことは、関係ないという事で
済ましてはいられなくなるという事です。
ひとつの事だけを深く問い詰めるだけではだめだという事です。
広く浅くを通して、いくつかのポイントを深堀してゆくようなやり方が
ベターという事になります。
ポイントが二つもあれば十分だったことが
現在は、五つくらいなければ対応しかねるというところまで来ているのです。

それから、素人という事を誤解しない方がいいのです。
現在ほど無知や無能がとがめられる時代はないのです。
私は素人だからはということが口実にならなくなった時代なのです。
今は、素人全体の能力が上がってきているのです。
社会全体が高度になってきたこともありますが
やはり、教育と訓練が必要なのです。
学校教育の水準の高さは、驚くべきものです。
現在と比べると、私たちは随分と素朴な時代を生きていたと
痛感しています。
この現在の学校教育の中で、
素人の時代から教養の人の時代に移行する基礎が日々生み出されている
といえると思います。
教養を教育するという事は、難しいことなのです。
入り口くらいなら示すことができるものなのです。
大部分は、生徒本人が自学自習、自分の頭と手を動かして
習得せざる負えないのです。
義務教育だけではなく、大学で「教養」を専門的に教える
研究することは、現在の社会ではことのほか大切なはずです。
そのためには、時間の余裕が必要なのです。
「モラトリアム」です。

考える事(思考)する上での技術としては、
①読書術
②書く技術(手書き・ワープロ)
③マニュアルを作る
④自由推理で考える です。

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