私の話「シンデレラはラプンツェルが嫌いなのです」…【ツインレイ(魂の片割れ)】

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まぁ、厳密に言うと、嫌いな一面もある。と言うことです。

尊敬とか、信頼とか。
そう言う一面もあります。


だけど「嫌いな一面は嫌いなまま」なのです。


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「嫌いなものは嫌い」=差がある。
だけどそれは、全体の一部である。
その差が、私なのだ。

だからこそ、私はシンデレラなのだ。


もしかして、これが構造主義の理解ですか?


ラプンツェルにはなれない。
例え、どんなに憧れても。
やってみたこともありますよ。
私なりに。

シンデレラとしてやったことは残ります。
ラプンツェルの真似は、本物には劣ります。
でも、経験として必要です。


もちろん、それがコピーなのかオリジナルなのか。区別はつきますよね。
コピーはオリジナルではありません。
https://coconala.com/blogs/2997019/395389

私の7人目のツインフレームの彼女に言わせるとこうなります。
偽物とは『コピー』です。

本物は『オリジナル』です。

コピーが悪いわけではありません。

コピーした内容を『そっくりそのまま自分だと思い込んでいる人たち』が偽物なんです。そこから発展を迎えない人たちが偽物です。


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なりたいけど、なりたくないのです。

やっぱり、それは私ではないのです。

「ツインレイの自立(男女の経済的自立と精神的自立のメカニズム)」について述べる私の7人目のツインフレームの彼女の話
https://coconala.com/blogs/2997019/407596
ツインレイが行き着く先は『自立』ではなく『依存の先に存在している共存』にある。

ツインレイは、男女により構成されている。男性には男性にとっての得意分野があり、女性には女性にとっての得意分野が存在している。お互いがお互いにとって『出来ることを支え合う』ことが出来るのがツインレイのカタチにある。

ツインレイが持ちつ持たれつとして存在するのは『性別による不得手の支え合い』であり、『個体による不得手による支え合い』が出来る相手がツインレイである。

...

依存している自分を受け入れることが出来なければ、自分ができることを実行することも出来ない為である。

自分にできることをする。そのために、自分の依存を受け入れていく必要性がある。
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「隣の子と自分の子の違いを比較しては嫉妬し、自分の子を<当人の等身大以上>を求めるような母にならないと言うことです / 無価値である自分を受け入れてください」by私の7人目のツインフレームの彼女
https://coconala.com/blogs/2997019/413887
無価値である自分を受け入れてください。母になるあなたが愛される条件など何もいらないのです。

母性とは無価値の先に越えて存在しています。無価値だからこそ手に入れることができる幸福の形があります。

そしていつか、あなたを捨てていくだろう我が子を受け止めるために、あなたは無価値を肯定しなければならないのです。


私はラプンツェルではないのです。

シンデレラなのです。


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あ、一応言っておきますが、比喩です。
比喩/譬喩(ひゆ) とは?
ある物事を、類似または関係する他の物事を借りて表現すること。たとえ。→比喩法

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比喩法(ひゆほう) とは?
物事を直接に描写・叙述・形容などしないで、たとえを用いて理解を容易にし、表現に味わいを加える修辞法。直喩(シミリ)・隠喩(メタファー)・諷喩 (ふうゆ) (アレゴリー)・引喩(アリュージョン)・換喩(メトニミー)・提喩(シネクドキ)などの種類に分けられる。

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