愛と偽善の境界線とは?「五本のバナナ」

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「持ち物が少なければ少ないほど、
 多くを与えることができます。

 矛盾としか思えないでしょう?
 でもこれが、愛の論理なのですよ。」

マザー・テレサ




最高にカッコいい、
僕の大好きなマザー・テレサの言葉です。


一読したところその意味の理解に苦しむのですが、
今回はこの深遠な言葉からスタートして、
「愛と偽善の境界線」というテーマで、お伝えしていきます。


何が本物の愛と呼べるのでしょうか?

愛と偽善を見分けるにはどうしたら良いのでしょうか?




泉谷閑示さん著作
『「普通がいい」という病』という名著があります。

この中に「五本のバナナ」というお話があります。

以下、抜粋します。




「五本のバナナ」


バナナが大好きな旅行者が、ある貧しく暑い国を旅しています。
その国には、道端に物乞いがたくさんいます。
旅行者は、物乞いに施しをしようと考えます。

彼はちょうど大好物のバナナを五本持っていました。
普段の彼は、三本食べると満腹して満足します。

そこで彼は、自分で食べるのは二本で我慢することにし、
残りの三本を気の毒な物乞いにあげました。

しかしこの物乞いはバナナが大嫌いで、一言のお礼も言わず、
彼の目の前で、地べたにバナナを捨てたのでした。


…さて、バナナをあげた旅行者は、いったいどんな気持ちになったでしょうか。

自分は我慢して施したのに、感謝もなく恩知らずな物乞いに腹が立ち、怒り心頭でしょう。

しかし、もし自分が三本のバナナを食べて、残りの二本はどうせ腐ってしまうのだからと
物乞いに差し出していたらどうでしょうか。

そもそも自分でも食べきれずに捨てたはずなのですから、それほど腹も立たないでしょう。

この一本の違いが、「愛」と「欲望」の違いを生むのです。
我慢してあげた一本は、感謝と言う見返りを期待してしまっている、
「偽善のバナナ」になるのです。



我慢した一本に何が込められているかといえば、それは同情心です。
その奥に「感謝して欲しい」「善い人と思われたい」「善いことをしたという自己満足が欲しい」などが潜んでいる。

それは善い行いのように見えて、やはり「欲望」です。

一方、「たまたま余ったので、捨てる代わりにご自由にお役立てください」
という場合には、仏教でいうところの「喜捨
喜んで捨てるという行為になります。

表面だけ善人のように整えても駄目で、等身大でなければ不純なものに変わる。
ですから、「愛」のために私たちができる第一歩は、逆説的ですが、
まず自分をきちんと満たしてやることなのです。

ところが面白いことに、人間は自分を満たしても、必ずいくらかは余るようにできている。
この余ったものを使ったときには、「愛」の行為になるのです。




どうでしょうか?
私はこの話を初めて聞いたとき身震いするほどの衝撃を受けたのですが、


つまり、


自分が我慢して行った奉仕は、
必ず何らかの見返りを要求してしまいます。

奉仕がエゴになってしまうのです。


そして、
見返りを求めない他者への奉仕を、愛と呼びます。


マザー・テレサはあれだけ他者への奉仕に人生を捧げましたが、
それは彼女が必要なバナナが1本だけだったからで、
残り4本分を周りに喜捨できたからです。



ここで冒頭のマザーの言葉をもう一度。


「持ち物が少なければ少ないほど、
 多くを与えることができます。

 矛盾としか思えないでしょう?
 でもこれが、愛の論理なのですよ。」



どうでしょうか。

マザーの説く「愛の論理」が、ご理解いただけたのではないでしょうか?




本当に自分も他者も幸せにしたいのなら、まず自分が幸せになることです。

まず自分の分のバナナを確保してから、残りを他人に与えましょう。


それと同時に、自分が必要に感じるバナナの本数も減らす努力をしましょう。

それが人間の器というものなのだろうと思います。


喜んで周りに喜捨できる、マザーのような人間になりたいものですね。

読んでくださり、ありがとう。


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