人はだれしも幸福でありたいと願い、
幸福を求めて行動している。
それは、人間としての自然的な行動であり、当然のことである。
幸福でありたいのに、不幸なことばかり起こる。
そんな時期もあろう。
しかし、不幸を知らないで幸福がわかるはずもない。
人生のさまざまな苦労というものは、すべて幸福のためにある。
苦労が多ければ多いほど、やがてくる幸福感も大きいにちがいない。
したがって、どんな絶望的に思われようと、
不幸を克服するには、苦労を避けてはならない。
また、幸福とは究極的には、決して他から与えられるものではない。
当然、それにはたゆまぬ努力が必要である。
苦労もまたひとしおであろう。
安易な妥協は許されない。
他人や生ぬるい環境への依存を排していく生き方には、
ときには孤高でさえあるかもしれない。
だが、人間として深さと誇りと気高さがそこにはある。
”究極的な幸福”が、自分で自分を幸せにできることであるならば、
”真実の幸福”を願うとき、それは自らの幸福ばかりではなく、
他の人の幸福のためにもはたらく人のことをいうのではないだろうか。
他人の幸福のために行動することが、
いずれは自身の幸福へとつながっていくことを確信しながら、
苦労の絶えぬ、この日々の生活を、真剣に生きていきたいと思う。