1978年に結成されてから1983年に「散開」するまでの5年間という短い期間に日本を席巻したYMO。
彼らは一体なんだったのか。
専門家ではないし、実は世代でもないので、詳細について詳しく語ったりすることは出来ないが、世代を超え、未だに色褪せない彼らの音楽には目を見張るものがある。
彼らはテクノ・ポップという音楽の1ジャンルを築き上げ、のちのテクノやハウス系のアーティストたちに重要なインスピレーションを与えたことは言うまでもない。
彼らの音楽は、音楽というジャンルを超え、ファッションや映像、美術や広告に至るまで幅広い影響を続け、「YMO文化」として今も君臨し続けている。
私が彼らの芸術に、自分として触れたのは、彼らかが散開してからずいぶんと経過してからだった。
我が家には彼らの最も有名で、そして最もイメージされていると思われるアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」の円盤があった。
おそらく幼い頃にはこれを聴いて育ったと思われるが、子供心にこのアルバムのジャケットの持つ不思議な魅力は、「怖い」と印象付けられ、私がこの円盤を自分で聴くことはなかった。
ところが、小学時代にひょんなことからYMOの音楽に触れることとなる。
YMOという先入観を持たないまま、私は初めてライディーンを耳にした。
それは、とある高校の体育祭に遊びに行ったときのことだった。
体育祭では、そう、あの「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」のアルバムが競技の入れ替え時に流されていたのである。
当時、中島みゆきや松任谷由実といった、少し温かみのある音楽を好んで聴いていた私の耳にはそれは完璧なまでの色彩と共に、新鮮に聴こえた。
初めて聴く音楽だった。
その数年後に、私はそれがYMOというグループの音楽だったと知る。
私がYMOを知った頃、姉は誕生日にキーボードをもらった。
姉は1ヶ月ほどキーボードに熱心だったが、飽きてしまい、それは私に貸し出された。
幼い頃にピアノを(ほぼサボっていて行っていなかったが)習っていた私は早速ライディーンの楽譜を手に入れ、キーボードに入力を始めた。
とはいえ、子供のおもちゃのようなキーボードでは彼らの音楽を1mmも再現することは出来なかった。
私はピアノを開け、メロディを追った。
それからしばらくYMOからは離れていたのだが、学生時代にあるCDと出会うことになる。
「レイブ・テクノポリス・トーキョー」という、YMOをオマージュした作品のCDだ。
これは90年代に日本で大流行したジュリアナ東京のあの曲調でYMOのかつての大ヒット曲を模したものであった。
YMO文化はここにも生きていた。
それから10年ほどは私はこのレイブ・テクノポリス・トーキョーをドライブ時の愛用音楽として流し続けることになる。
そして近年、思い出したかのようにこの「レイブ・テクノポリス・トーキョー」のCDを購入し直した。
今も作業BGMはかなりの頻度でYMOが流れている。1978年から、実に44年。
44年の時を経ても褪せないこの音楽は、まさに黄魔術をかけられているのかもしれない。