ある高齢(80歳)の落語家が、以下のように語っていました。
「日本語っていうのは日本の文化。その文化を1番、使っているのが、我々、噺家だと思いますよ。それも笑いに持っていっている。
失礼ですけど、日本語を使わないで笑いを取っている芸能人の方が大勢いるじゃないですか。これも、言っちゃ失礼ですけど裸でお盆持って出てきて何が芸なんですか。私は違うと思うな。
ああいうのを見て、面白いな、うまいなと思われちゃ困るんです。やっぱり日本の言葉を使って笑いを取るのが芸人であり、我々、噺家だと思いますよね。だから大いに日本人に聞いていただいて、日本語というものを、もっともっと理解していただきたい」
どうですか。
我田引水を絵にかいたような発言ですね。
落語家の矜持から来た言葉なのでしょうが、完全に落語以外の演芸を馬鹿にしています。
もともと、落語家は漫才その他を色物といって下に見ていたんですが、この人はそうした考えを今でももっているようです(実は、私も裸にお盆の芸は好きではありませんが、それは別の話です)。
まず、日本語という日本の文化を1番使っているのが落語家というのは間違った自負心ですね。
落語は、日本のある時期に、ごく一部の地域で使われていた話し方を受け継いだものです。
それを日本全体を代表する言葉のように言うのはおかしい。
この言葉は、現在では落語を演じる時以外には使えません。
文化かも知れませんが、保護の対象になるような、要するに時代遅れなんですね。
この落語家は「・・・ああいうのを見て、面白いな、うまいなと思われちゃ困るんです」といっています。
しかし、面白いかどうかを決めるのは客でしょう。
演者が押し付けるものじゃない。
要するに彼は、話芸以外を芸と認めていない。
しかし、演芸の中にはあまり言葉に頼らないものも多いですよね。
たとえば、ジャグリング(曲芸)や奇術は芸ではないのでしょうか。
そして、話芸の中でも漫才や漫談、講談なんかは眼中にない。
落語が日本語を使用した芸の一つであることは否定しませんが、現在の日本を代表する文化ではないでしょう。
たとえば、「松本人志のすべらない話」(最近はやってないかな)というテレビ番組があります。
ご存知の方も多いと思いますが、人気芸人が自分が経験した面白い話を語るといった内容です。
かなり前のことですが、この番組に落語家が出演したことがあります。
完全に浮いていました。
話のテンポが番組にまったく合っていない。
落語家というアイデンティティを守ろうとして独特の口調を崩したくなかったのかも知れませんが、話し方を自由に変えられないのでは、芸があるとは言えないでしょう。
私の子供のころのことを考えると、落語はもう少し身近にあったような気がします(私は関西出身なので大阪落語ですが)。
しかし、今では一部の人を除いては完全に遠いものになっています。
能や狂言、歌舞伎と同じような感じ。
そのうちに国の保護の対象になるんじゃないかな。
笑いは時代と共に変化していきます。
今はテレビが主流なので(You Tubeその他の媒体も増えていますが)、芸もテレビにあったものになっているわけです。
簡単に言うとアドリブ系ですね。
そして、落語はアドリブには向いていない。
余談ですが、「笑点」の大喜利はすべて台本があり、リハーサルも行なっているそうです。
しかも、落語家のユーモアのセンスは、基本的に洒落や語呂合わせで、現代の芸人がもっとも避ける種類のものです。
ところで、落語以外の芸を批判した落語家は80歳になっても高座に上がって落語を演じています。
それを称賛する声も多いようです。
しかし、それは落語という芸がその程度のものだということでしょう。
同じ話を繰り返しているだけだからできることです。
味があるとの意見もありますが、一部のファンだけに通用するだけです。
長々と書いてきましたが、いくら年を取っているとはいえ、芸人が他の芸人を批判するのは、あまり感じがいいものではありません。
では。